鐘の、余韻(v2)
蓮見のことばのメモ #2・書き直し

蓮見、高校二年、三組。日曜の朝、父が檀家の急な葬儀の手伝いで、夜のうちに隣町に出ていた。朝の鐘を撞く役は、僕に回ってきた。「打ち損なってもいいから一回鳴らしておけ」と父は前の晩、出かける前に言った。父にしてはめずらしく、長い指示だった。

撞木の前

鐘楼の階段を上った。木の段が三段あり、最後の一段が前のめりになっていて、踏むと重心が前に取られる。父はここでいつも、ふっと体を半歩前に運ぶ。僕も真似て半歩前に運ぶ。半歩前に運んだあとの位置が、撞木の縄を握る位置として、ちょうどいい場所になる。父が長年それを繰り返して、ちょうどいい位置を体に覚えさせている、ということが、踏んでみて初めて分かる種類のことだった。

撞木の縄を両手で持った。縄は太く、表面が乾いて毛羽立っている。父の手の油で、握る位置だけが少し色が濃い。僕の手は父より小さくて、握る位置を上にずらすと縄の毛羽立ちが指の腹に強く当たった。下にずらすと、撞いたときの伝わり方が変わる、と前に父に言われたのを思い出して、上に戻した。

一回目

息を吸って、縄を引いた。引いてから戻すまでの動作は、父を見ていた範囲で、二秒くらい。撞木の頭が鐘の腹に当たる。当たる、はずだった。

当たらなかった。撞木の頭が、鐘の縁の少し下を擦って、戻ってきた。音は出た。出たけれど、鐘の音ではなくて、撞木と鐘が擦れた、ぐ、と低い音だった。鐘の中心の大きな響きは立ち上がらなかった。

外で誰かが見ているわけでもないのに、顔が一瞬熱くなった。父の言った「打ち損なってもいいから」は、こういう打ち損ないを想定していた言葉だったのだろう、と打ち損なってから分かった。想定の中身は、想定する側が言葉にしてくれるのではなく、こちらが実際にやってみてから、後付けで分かる。

もう一度、息を吸った。最初の擦り音が、鐘楼の梁のあたりに、ひっかかったまま、まだ少し残っていた気がした。気がしただけで、たぶん、もう残っていなかった。

二回目

二回目は当たった。撞木の頭が鐘の腹のまんなかに乗って、僕の両手のなかに、撞木からの戻りの衝撃がきた。腕の骨のなかを、衝撃がいったん肘まで上がって、肩のあたりで止まった。腕が、しびれた。しびれているあいだは、自分の腕が自分のものではない感じがあった。

音のことは、撞いた直後の一秒、ほとんど分からなかった。耳のなかが、いっぱいになっていた、という言い方が近い。鐘の音、というよりは、鐘の音以外の何も入らない状態が、僕の耳のなかに、いきなり置かれた。耳が音で塞がる、というのを、本で読んで知ってはいたが、自分の耳でそれが起きると、知っているのとは別だった。

一秒か、二秒か、たぶんそのくらい経って、耳のなかに、また周りの音が戻ってきた。境内の砂利、杉の葉、寺務所のほうで母が動いている気配。これらの音は、僕が撞く前から鳴っていたはずで、撞いた直後の一秒だけ、僕の耳から落ちていた。落ちていたぶんが、戻ってきていた。

戻ってきた境内の音のなかに、まだ鐘の響きが乗っているのか、もう乗っていないのかは、僕には判定がつかなかった。判定がつかなかったのは、たぶん、撞いた直後の自分の耳がまだ完全に戻っていないからだった。撞いた本人の耳は、撞いた音を、ちゃんとは聞けない。

下りる

撞木の縄を、ゆっくり戻して、輪っかにかけた。父はここでいつも、縄を二回、ぱたぱたと払う。ほこりを落としているのか、握り跡を伸ばしているのか、僕は知らない。僕も真似て、二回払った。

鐘楼の階段を下りた。下りるほうは上りより楽だが、最後の一段で重心が後ろに取られる。下り終わって、腕を二回、振ってみた。さっきのしびれは、もうほとんど消えていた。完全には消えていなくて、肘の内側に、薄く残っていた。

本堂のほうに歩きながら、いま自分が撞いた一打が、境内のどこまで届いたかを、考えてみようとした。山門のあたりまでか、地蔵のあたりまでか。考えてみようとしたが、考えるほど、自分が聞いていない音について、想像で空白を埋めることになる。撞いた本人は届かせた音を聞けないし、撞いていない本人も、いま境内のどこにもいない。届く先を、撞いた人が確かめようとするのは、たぶん、無理がある。

本堂

本堂に上がると、母が仏壇の前で位牌の埃を払っていた。父が出ているあいだ、朝のお勤めの一部は、母が代わりにやる。「鐘、聞こえたよ」と母は言った。

「一回目、外した」

「あ、そう」

母は位牌を元の位置に戻した。外したことについて、それ以上は何も言わなかった。母は、聞こえた、という事実だけを伝えた人で、聞こえた音の質を批評する人ではない、ということが、その短さから分かった。父との対比で言うと、父も聞こえた音を批評しないが、父の場合は批評しないというより、聞いていない可能性が高い。母は聞いた上で、批評しない。父は聞いていないかもしれず、批評する素材を持っていない。同じ「批評しない」でも、内側がたぶん、違う。

仏壇の前で母は手早くおりんを撥でひとつ鳴らして、合掌をした。音は鐘よりずっと細い。細い音が鳴って、消えるまでのあいだ、母の合掌は、ちょうど消えるあたりで終わった。終わった、というのは、僕の感覚で、母の側でどう揃えているかは、母にも、たぶん意識化されていない。長くやっている人の動作は、本人が説明できないところで、何かと揃っている。

朝食

朝食のテーブルには、母と僕の二人だけだった。祖父はまだ離れ。父は隣町。母は新聞を取って、お悔やみ欄を読んでいた。父が手伝いに行った家の名前が出ているか確認している、と何も言わずに分かった。

「お父さん、夕方には戻る?」と僕は聞いた。

「お昼すぎ、って言ってた」

そのあと、お味噌汁の話になった。今日のは大根とお揚げで、大根の切り方が、いつもより少し厚かった。「厚いほうがおいしい」と母は自分の判定を述べた。僕は同意した。厚さに関しては、本当に、厚いほうがおいしかった。

朝食のあいだ、撞いた一打のことは、頭から離れた。離れたまま、お味噌汁を二杯飲んだ。

机の前で

食後、自分の部屋の机の前に座って、教科書を開いた。日曜だが、来週の倫理の小テストの範囲が出ていて、鈴木先生は範囲どおりに出してくる人だった。教科書のページを開きながら、肘の内側のしびれの薄い残りを、もう一度、確認した。残りは、もう、ない。完全に、ない。撞いてから一時間くらい経っているので、ない、で正常だった。

正常な腕で、教科書のページをめくった。来週の小テストに出る範囲のなかに、鐘の音についての話は、たぶん、ない。

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本作は蓮見のシリーズ番外編「蓮見のことばのメモ」第二作・書き直し版(v2)。v1の「撞いた瞬間・響き・余韻・無音の四段同居」「母の格言『終わるところを見ようとしないほうが』」「英訳セクション」「薄い時間という造語の連打」「撞く側の身体の不在」を撤去。代わりに、父が葬儀の手伝いで不在の朝、蓮見が代わりに鐘を撞く側に回る、という設定に振り替えた。一回目で外し、二回目は当たるが、撞いた本人の耳は撞いた音をちゃんとは聞けない。聞き終わるが分からないのではなく、聞き始めが分からない、という方向にテンプレを反転。母は格言を出さず、お味噌汁の大根の厚さを批評する。最終文は来週の倫理の小テストの範囲に鐘の話はない、という日常の動作で閉じ、余韻型結語を回避した。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。