高校二年、二組、森田。日曜の昼前、家の台所。母が、買い物に出る前に、「ジュン、お味噌汁、温めといて」と、言った。
「うん」と、答えた。
「冷蔵庫の、鍋、そのまま、火にかけて。塩、ちょっと、足してくれる」
「うん」
母が出かけたあと、台所に、立った。冷蔵庫から、味噌汁の鍋を、出した。蓋を取って、コンロにかけた。中火。
湯気が、立ち始めたあたりで、塩を、足す番が来た。
母の言った「ちょっと」が、どのくらいの量なのかを、考えた。考える前に、足してしまえばよかったのに、考えた。
食卓の塩入れを、左手で持って、右手の指で、つまんだ。指の腹に、塩の粒が、いくつかついた。これで足すのが、いちばん「ちょっと」に近い動きだろう、と、思った。
指の塩を、鍋の上で、振った。湯気の中に、白い粒が、消えていった。
消えていったあとで、振った量が、どのくらいだったかを、思い出そうとして、思い出せなかった。指のなかにあったぶんを、ぜんぶ、入れた、のは、たしかだった。
味見を、しなかった。
「ちょっと」と頼まれたから「ちょっと」入れた、だから「ちょっと」のはずだ、と、頭が、計算した。計算は、たぶん、あっていた。あっていたから、味見の手間を、省いた。
火を弱めて、味噌汁を、温めた。お椀を、二つ、出して、盆に、置いた。母が、買い物から、帰ってきたあと、二人で、お昼を食べる予定だった。
母が、玄関を、開けた。買い物袋を、台所まで、運んで、椅子に、座った。
「お、温めてくれてありがとう」
「うん」
母は、お椀に、味噌汁を、よそった。湯気が、台所の電気の下で、上に、伸びた。
お椀を、両手で、受け取った。すすった。
しょっぱかった。
母も、すすった。母は、お椀を、しばらく、口元から、離さなかった。離してから、こちらを、見た。
「ジュン、塩、どのくらい、入れた?」
「指で、ひとつまみ」
「ひとつまみ」
「うん」
「お母さんの『ちょっと』は、ひとつまみより、ずっと、少なかった」
「ずっと?」
「だいぶ、少ない」
母は、お椀を、置いた。それから、笑った。「ジュンの『ちょっと』、けっこう、強気だね」
「強気」と、復唱した。
「お母さんの『ちょっと』は、こう、指の先っぽ、ほんの少し」
母が、自分の右手の人差し指の、爪の先のあたりを、左手の親指で、ほんの少し、押さえた。爪の、半分くらいの面積。
「これくらい?」と、聞いた。
「これくらい」
こちらの「ひとつまみ」と、母の「爪の半分」のあいだに、塩の量で、たぶん、二倍か三倍の差が、あった。差は、二倍とか三倍とか、数字では、考えなかった。母のお椀のしょっぱさが、そのまま、差だった。
母が、立ち上がって、ポットから、お湯を、二人のお椀に、足した。お椀の中で、味噌汁が、薄まった。もう一度、すすった。
まだ、すこし、しょっぱかった。母も、もう一度、お湯を、足した。
三回目で、ふつうの、味になった。
「ふつうの、味」というのが、どこから来たのかは、分からなかった。母が、お湯を、足す手の、回数で、調整していた。回数を、こちらは、見ていた。見ながら、自分の口の中の、しょっぱさが、薄まっていくのを、確かめていた。
「ちょっと、足しすぎちゃったね」と、母が、言った。「ちょっと」が、ここでは、こちらの失敗の量を、指していた。指している量は、こちらの口の中で、薄まっていく途中だった。
「うん」と、答えた。
「次から、味見、してね」
「うん」
食事のあと、お椀を、洗った。指で、塩入れの、蓋を、もう一度、開けて、中を、見た。粒が、半分くらいまで、減っていた。買ったばかりのとき、満タンだったかどうかは、覚えていなかった。
蓋を、閉めた。塩入れを、棚に、戻した。
母の言う「ちょっと」と、自分の指の「ひとつまみ」が、同じ量だ、と、計算した瞬間に、味噌汁は、しょっぱくなった。母の「ちょっと」は、母の指の動きの中に、入っていた。母の指の動きは、こちらの指の動きとは、別の動きだった。別の動きを、こちらの指で、再生しようとして、再生できなかった。再生できなかった結果が、お椀の中に、出た。
計算で再生できないものを、母は、毎日、台所で、ひとりで、やっていた。やっていたことに、こちらは、味噌汁が、しょっぱくなって、初めて、気づいた。
気づいたあとで、塩入れの蓋を、もう一回、開けたい気が、した。開けても、母の指の動きは、塩入れの中には、入っていなかった。塩入れの中に入っていたのは、塩、だった。
蓋を、閉めたまま、棚から、また、出さなかった。
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← 関連:ジュンのトロッコ問題シリーズの種明かし
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本作はジュンのシリーズ番外編「ジュンのことばのメモ」第二作の書き直し版(v2)。v1の5サンプル並列(塩・玄関・相談室・部室・夜の味噌汁)、「空欄を埋める身体」「効用関数を共同で走らせる」のキメ比喩、英訳の棚(a little / a bit ほか)、「四音で構えが決まる」「『うん』も量ではなかった」の拡張リフレイン——これらをすべて撤去。代わりに「ちょっと」の量的失敗を、ひとつの場面(日曜の家の台所、母の頼みでお味噌汁を温める)だけで書く。鈴木先生の場面も外して、横断癖を意図的に壊した。母の「だいぶ、少ない」が観察の核を、ジュンではなく母の側に置く。結尾は、塩入れの蓋を閉めたまま棚に戻さない、という宙吊りの動作で止める。