「ちょっと」の、量
ジュンのことばのメモ #2——ジュンのシリーズ番外編

高校二年、二組、森田。土曜の昼前、家の台所。母が、フライパンの前に立っていた。卵を割って、ボウルに、二つ。砂糖を、計量スプーンに、すり切りで、一杯。

母が、こちらを、見ずに、言った。

「ジュン、塩、ちょっと」

塩、ちょっと

食卓の塩入れを、母の右手のあたりに、置いた。母は、蓋を開けて、指で、つまんで、フライパンの上に、振った。指の、ひとつまみ。それで「ちょっと」は、終わりだった。

頭のなかで、量を、数えにいった。塩のひとつまみは、料理本の換算では、〇.五グラム前後。ふたつまみで、一グラム弱。母の今日の振り方は、ひとつまみよりやや多く、ふたつまみよりは少ない。〇.七グラム、と、目分量で、出した。

けれど、母は、〇.七グラム、と、頼んだのではない。「ちょっと」と、頼んだ。

「ちょっと」を、グラムに翻訳したのは、こちらの頭だった。母の頭のなかには、たぶん、グラムは、なかった。母の指のなかに、〇.七グラムくらいに相当する動きが、あった。

効用関数の入力に、「ちょっと」は、入らない。グラムは、入る。けれど、母は、グラムでは、料理を、作っていなかった。

ちょっと待って

玄関で、ハルが、サッカーバッグを、持って、立っていた。練習に、行く時間だった。

「ジュン、靴下の片方、見当たんないんだけど」

「洗濯機の、横の、かご」

「あー、あった。ありがと」

ハルが、靴下を履きながら、「ジュン、ちょっと待って」と、言った。

「うん」

「水筒、入れ忘れた」

ハルが、台所に、走っていった。冷蔵庫を開ける音、麦茶の音、水筒の蓋を閉める音。戻ってきた。三十秒くらい、だった。

「ちょっと」が、三十秒、だった。

これが、五分だったら、たぶん、「ちょっと」とは、言わなかった。「五分待ってて」と、言ったはずだった。「ちょっと」は、相手が、待つことに、不自由を感じない範囲、として、ハルの口のなかで、計算されていた。

計算、と書いたが、たぶん、ハルは、計算していない。計算していないのに、〇秒では足りず、五分では言い換える、という幅の中で、「ちょっと」が、出た。

ちょっと聞いていい

月曜、放課後、相談室の前を、通った。倫理の鈴木先生が、ドアの前で、こちらを、見つけた。

「森田、ちょっと聞いていいですか」

「はい」

先生は、五分くらい、立ち話で、来週の倫理のクラスで、生徒に意見を出してもらう題材について、自分の感想を、聞いた。「五分くらい」が、結果としての五分であって、先生の「ちょっと」が、五分を、最初から、指していたかどうかは、分からなかった。

もし、こちらの返事が、長くなっていたら、先生の「ちょっと」は、十分にも、十五分にも、なっていたかもしれない。けれど、先生が「ちょっと」と切り出した時点では、その十分や十五分の可能性も、含み込んだうえで、たぶん、「ちょっと」だった。

先生の「ちょっと」は、所要時間ではなくて、「これから話すことの、軽さの、宣言」のほうに、近かった。重い相談ではない、と、最初に、四音で、伝える。聞く側は、その四音で、構えを、決める。

四音で、構えが、決まる。これは、量ではない。

数学研究会で

数学研究会の部室で、ノブが、ホワイトボードの前で、止まっていた。

「ジュン、これ、ちょっと見てくんない?」

「うん」

ノブの式を、横から、覗いた。積分の置き換えで、一行、符号が、ずれていた。指で、その一行を、指した。

「ここ」

「あー」

ノブが、消して、書き直した。三十秒くらいだった。

「ありがと、助かった」

「うん」

ノブの「ちょっと見て」は、三十秒の作業だった。けれど、ノブが「ちょっと見て」と頼んだ時点では、三十秒で済むかどうかは、分からなかったはずだった。三十分かかる可能性も、入っていた。それでも「ちょっと」と頼んだ。「ちょっと」は、結果の量ではなく、頼みの、軽さだった。

頼まれる側も、それを、了解して、「うん」と返した。「うん」は、三十秒も、三十分も、両方、含んでいた。

「ちょっと」と「うん」は、量を、特定していない。特定していないまま、作業は、進む。

入力が、定義されていない

家に帰る電車の中で、もう一度、「ちょっと」のことを、考えた。

効用計算には、入力が、必要だ。塩は何グラム、待ち時間は何秒、距離は何メートル。数値が入って、関数が動く。「ちょっと」は、数値ではない。「ちょっと」は、数値が入るべき場所に、空欄を、置いておく、という指示に近い。空欄のまま、関数が、走り出す。

関数が走り出すと、空欄に、相手の身体が、自分の身体で、何かを、書き込む。母の指のひとつまみ。ハルの三十秒。鈴木先生の、軽さの宣言。ノブの、三十秒の作業見積もり。書き込まれる値は、そのつど、違う。違うまま、料理は、できる。練習には、間に合う。会話は、続く。式は、直る。

合理的選好の理屈で言えば、入力が、特定されていない関数は、出力が、不定のはずだった。不定のはずなのに、結果は、出ている。これは、関数の側で、入力の不定を、吸収する、ということが、起きている。

吸収しているのは、たぶん、相手の身体だった。「塩、ちょっと」と頼まれた側は、自分の指で、塩を、つまむ。つまんだ瞬間に、「ちょっと」が、グラムに、変換される。変換は、頼んだ側の頭の中ではなく、頼まれた側の身体の中で、起きる。

これは、効用関数を、二人で、共同で、走らせる、ということだった。

英訳の、棚

英語の、似た言葉を、思い出してみた。a littlea bitkind ofsomewhatslightly。授業で、出てきた語彙だった。

a little salt、と頭の中で言ってみた。塩、少し。これは、量の指示として、機能する。けれど、「あなたが、自分の指で、量を、決めてくれるはず」というニュアンスは、a little の中には、入っていない、気がした。a little は、もう少し、料理本の側、レシピの側、書かれたグラムの側に、寄っている。

just a moment と、ちょっと待ってjust a moment は、所要時間を、自分の側で見積もって、相手に伝えている。ちょっと待って は、所要時間を、相手の許容のなかで、決めてもらっている。向きが、違う。

違うけれど、英語でも、料理は、できる。練習にも、間に合う。たぶん、英語の側にも、別の畳み方が、ある。a pinch of salthold onquick question。それぞれが、それぞれの場面で、それぞれの空欄を、別の形で、置いている。

「ちょっと」を、a little の一語に、対応させようとすると、こぼれる。こぼれるのは、たぶん、量ではない。量は、両方の言語に、ある。こぼれるのは、入力を、相手に、預ける、という畳み方の、ほうだった。

東が前に、別の四音で、似たことを、書いていた。畳み方を翻訳する言葉は、別の言語にはない、けれど、畳まれているもの自体は、両方の言語に、ある。「ちょっと」も、たぶん、似た位置にいる。

夜、台所で

夜、台所で、母が、味噌汁を、温め直していた。お椀を、二つ、出して、盆に置いた。

「ジュン、ちょっと味見して」

味噌汁を、ひとくち、すすった。出汁の塩が、舌の奥のほうに、来た。

「ちょっと、しょっぱい」

と、答えた。答えてから、自分の口から「ちょっと」が、出ていたことに、気づいた。

母は、頷いて、お湯を、少し、足した。「少し」も、グラムでは、なかった。母の、お湯を注ぐ手の、動きの、一回分。それで、味噌汁は、戻った。

もう一度、すすった。ちょうど、よかった。「ちょうど」も、量では、なかった。

合理性の、入力欄に、「ちょっと」「少し」「ちょうど」が、ならんで、入っていた。どれも、数値では、ない。数値ではないのに、味噌汁は、できあがっていた。

関数の外側に、なにか、別の機構が、ある。母の指、ハルの三十秒、先生の軽さ、ノブの「うん」、自分の舌。それぞれが、それぞれの場で、空欄を、埋める。埋め方は、毎回、少しずつ、違う。違うまま、料理は、続く。

合計の、グラム数は、たぶん、出せる。出せるけれど、合計の外側に、また、何か、書かれていないものが、ある。書かれていないものを、書こうとして、書けないまま、お椀を、二つ、食卓に、運んだ。

母が「ありがと」と言った。「何が」と、答えそうになって、やめた。「うん」と、答えた。

「うん」も、たぶん、量ではなかった。

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本作はジュンのシリーズ番外編「ジュンのことばのメモ」第二作。土曜の台所、玄関、月曜の相談室、数学研究会の部室、夜の味噌汁——五つの場面で、「ちょっと」という日本語の量詞が、定義のないまま、会話の中で機能している様子を、ジュンの効用計算癖が、横から、観察する。塩のひとつまみ、ハルの三十秒、鈴木先生の軽さの宣言、ノブの式の符号、夜の味噌汁の「ちょうど」。どれも数値で特定されていないのに、関数は、走り出し、結果は、出ている。「ちょっと」は、入力欄に置かれた空欄であり、空欄を埋めるのは、頼まれた側の身体である——という観察が、合理性の入力の側に、もうひとつ、項を、足す。前作「コンビニのおにぎり」の事前効用、本作の入力の不定性。ジュンの効用関数は、二人で共同に走らせる装置として、徐々に、輪郭を、変えつつある。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。