高校二年、二組、森田。木曜の六限のあと、進路指導室。担任ではなく、進路担当の橋本先生が、机の向かいに、座っていた。机の上に、進路希望調査の用紙が、一枚、置いてあった。第一希望、第二希望、第三希望、と、欄が、三つ、並んでいた。
欄は、ぜんぶ、空いていた。
「森田、まだ、書けてないか」
「はい」
「先月の調査も、空欄だったな」
「すみません」
「謝らなくていい。文系か理系か、それくらいは、出てる?」
頷きかけて、止まった。数学と物理は、好きだった。倫理の授業も、嫌いではなかった。経済の本も、ときどき、読んでいた。
「とりあえず、理系で」
と、口が、答えていた。
口が答えてから、頭が、追いついた。
橋本先生は、頷いた。頷いて、青いボールペンで、用紙の欄外に、何か、書いた。机の向こうからは、読めなかった。
「とりあえず、理系。よし。じゃあ、それで、進めよう」
「進める、というのは」
「次の調査までに、理系の中で、もう少し、絞れるか、見てみよう、ということ」
「はい」
「『とりあえず』で、いいんだよ。森田。嘘じゃない。現時点の、暫定の、答えだ」
暫定、という言葉を、頭のなかで、繰り返した。
進路指導室を出て、廊下を、歩いた。窓の外は、もう、暗かった。
「理系」と、書くときに、自分は、それを、最大の判断と、決めたわけではない。判断のための情報は、まだ、半分しか、見えていなかった。半分なら、決定は、保留すべきだ。空欄のまま、提出しない。これが、教科書通りの、答えだった。
けれど、空欄のままだと、進路指導は、始まらない。説明会の案内も、過去問も、推薦の枠も、入ってこない。情報の入り口が、閉じてしまう。閉じている時間ぶん、判断のための材料が、減り続ける。
保留にも、コストが、あった。
「とりあえず」は、その閉じを、開ける、四音だった。
仮置きの値は、本当の選好では、ない。本当の選好を、保留したまま、別の値を、いったん、入れる。入れるからこそ、用紙は、動く。動くからこそ、情報が、戻ってくる。戻ってきた情報で、本当の選好の、輪郭が、すこし、はっきりする。はっきりしたところで、仮置きを、書き換える。
教科書のモデルでは、選好は、一回で、確定する。実際の自分は、何回も、書き換える。書き換える前提で、最初の一回を、置く。
「とりあえず」は、書き換える前提を、四音で、宣言する道具、だった。先生が「嘘じゃない」と言ったのは、たぶん、このことだった。近似値は、嘘ではない。近似値であることを、引き受けて、置く、ということ。
電車の中で、別の「とりあえず」を、思い出した。父と、父の会社の人が、家のリビングで、軽く飲んでいたとき、父が、最初に「とりあえず、ビール」と、言っていた。会社の人も、頷いて、ビールに、なった。
あれも、同じ機構だった。全員の、本当の選好を、確定させようとすると、時間が、かかる。かかっているあいだ、注文は、進まない。低リスクの暫定値を、まず、置く。グラスが、来る。本当に飲みたいものは、二杯目で、各自、決める。一杯目の間に、確定のための情報が、溜まっている。
「とりあえずビール」は、サーチコストを、一杯ぶんの時間だけ、後ろに、ずらす、四音だった。ずらしているあいだに、テーブルは、動く。テーブルが動くこと、と、選好が確定すること、を、別々に、扱う。これが、「とりあえず」の、深いほうの、機能だった。
英語にすると、どうなるだろう、と、一瞬、考えた。for now が、出てきた。出てきたところで、止まった。for now は、暫定の時間幅を、はっきり引いている。「とりあえず」のほうには、こちらの情報が足りていない、という状態の話も、四音の中に、入っていた。出てこない、ということが、観察だった。今日は、それ以上、棚を、開けなかった。
家に着いたら、母が、台所に、立っていた。
「ジュン、夕飯、何にする?」
「とりあえず、冷蔵庫、見る」
と、答えていた。また「とりあえず」が、口から、出ていた。
冷蔵庫を、開けた。豚肉と、白菜と、しめじと、卵が、見えた。見えた時点で、「鍋」が、頭の中に、立ち上がっていた。
「鍋、できそう」
「いいね」
決めてから動く、ではなくて、動いてから決める。動くために、最初の一歩を、暫定で、置く。「とりあえず、冷蔵庫」も、「とりあえず、ビール」も、「とりあえず、理系」も、たぶん、ぜんぶ、同じだった。
橋本先生が用紙の余白に書いた、読めなかった字を、思い出した。先生は、何を、書いていたんだろう。
白菜を、洗った。
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本作はジュンのシリーズ番外編「ジュンのことばのメモ」第三作。木曜の進路指導室、進路希望調査の空欄を前に「とりあえず、理系」と口から出てしまったジュンが、その四音の機構を、廊下と電車と家の冷蔵庫の前で、ばらしていく。情報が足りないまま決定を保留すると、保留のコストが発生する。「とりあえず」は、保留のコストを避けるための、暫定値の仮置き——書き換える前提で置かれる近似値——として機能している。「とりあえずビール」も「とりあえず冷蔵庫を見る」も、同じ機構の別バージョンだった。前作までの「事前効用」「入力の不定性」に続いて、本作では「決定の暫定性」が、合理性の輪郭の、外側に、ひとつ、足される。橋本先生がボールペンで余白に書き込んだ読めない字は、最後まで、読めないままだった。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)