高校二年、二組、森田。火曜の放課後、数学研究会の部室。ノブと、二人だけだった。ホワイトボードの前で、ノブが、来週の校内発表のテーマを、決めかねていた。
ノブの手元に、候補が、三つ、書いてあった。確率の話、整数論の話、グラフ理論の話。三つとも、一行ずつ、青いマーカーで、書かれていた。
「ジュン、どれがいいと思う」
「うん」
「俺は、整数論の、やつにしたいんだけど、自信が、ない」
「自信」
「発表で、十分、もたない、気がしてる」
三つの候補を、もう一度、見た。確率は、シンプル。整数論は、ノブが好きそう。グラフ理論は、図が描きやすい。書きやすさで言えば、グラフ理論が、いちばん早く、形になりそうだった。
けれど、ノブが、整数論を、選びたい、と言っていた。選びたい理由を、聞かなかった。聞かないまま、口が、動いた。
「とりあえず、整数論で、書き出してみたら」
と、答えた。
答えてから、自分の口の中の「とりあえず」を、確かめた。
「とりあえず」は、こちらが、ノブの三択を、決めきれないときに、出た。決めきれない、というよりは、決めるのが、いまの仕事ではない、と、判断した、ときに、出た。
整数論で書き出してみて、十分の発表に、しんどそうだったら、別のテーマに、戻る。戻る前提で、まず、整数論を、机の上に、置く。机の上に置かれた整数論が、整数論として続けられるかどうかは、書き出してみないと、分からない。書き出してみる時間は、こちらが、用意しなくても、ノブが、自分で、用意する。
「とりあえず」と言った、こちらは、その四音で、決定の重さを、ノブに、戻した。戻した、というのは、「決めるのは、お前で、いいよ」と、軽く、言った、ということだった。軽く言った、ということが、「とりあえず」の中に、入っていた。
けれど、ノブは、こちらの「とりあえず」を、受け取らなかった。
ノブが、こちらを、見た。マーカーを、ホワイトボードの溝に、置いた。
「ジュン、いまの『とりあえず』、ジュンらしくない」
「らしくない?」
「ジュンは、即答する人、だと、思ってた」
「即答」
「五人より一人、みたいに、即答する。整数論か、グラフ理論か、で、ジュンは、整数論、って、言うか、グラフ理論、って、言うか、どっちかに、するんだろうな、って、思ってた」
言われて、しばらく、何も、答えられなかった。
ノブの観察は、合っていた。一年生のとき、二年の頭、たぶん、ふつうの自分なら、即答していた。「グラフ理論。図が描きやすい」と、答えていた。
けれど、今日は、即答しなかった。即答する代わりに、「とりあえず」と、言った。
言った瞬間に、決定の重さを、相手に戻している、という動作が、自分の中で、起きていた。それが、ノブには、ジュンらしくない、と、見えた。
「自信、ない、って、言ったの、何の自信」と、聞いた。
「説明が、うまくできる自信。証明は、たぶん、できる。けど、人前で、十分、伝えるのが、自信、ない」
頷いた。ノブの「自信ない」は、テーマの選択の話ではなくて、発表の動作の話だった。テーマは、ノブの中で、すでに、決まっていた。決まっているところに、こちらが「とりあえず、整数論で」と、決定を返した。返したものを、ノブは、要らない、と、こちらに、戻した。
「整数論で、いい?」
「いい。ノブが、整数論で、行きたいなら、整数論で、行ったほうが、いい」
「即答」
「即答」と、復唱した。
ノブが、笑った。マーカーを、もう一度、取って、確率と、グラフ理論の上に、ばつ印を、書いた。整数論だけが、ホワイトボードに、残った。
七時の、部室の閉室時間が、来た。電気を、消して、鍵を、閉めた。ノブと、廊下を、歩いた。
「ジュン、さっきの『とりあえず』、なんで、出たの」と、ノブが、聞いた。
「ノブの、選びたい、を、決めるのは、こっちじゃない、と、思ったから」
「だから、軽く、戻した?」
「軽く、戻した」
「軽く戻されると、こっちは、もう一回、自分で、決めないと、いけない」
「うん」
「ジュンに、決めてほしかった、というのが、半分くらい、あった」
「半分」
「もう半分は、自分で、決めたかった」
「半分と、半分」
「うん」
ノブの「半分と、半分」を、頭の中で、もう一度、聞いた。「とりあえず」と、こちらが言ったとき、ノブの中の「決めてほしい半分」と「自分で決めたい半分」のうちの、後者を、こちらは、勝手に、選んでしまった。前者を、軽く、退けてしまった。
退けたつもりは、なかった。「とりあえず」の中に、退けが、入っていた、ということを、ノブの「半分と、半分」を、聞いて、知った。
階段の踊り場で、ノブが、立ち止まった。
「ジュン、明日の、発表の打ち合わせ、いつにする」
「明日の、放課後で、いい?」
「いい」
「整数論の、原稿の下書き、見せて」
「とりあえず、できてるとこまで、見せる」
ノブが「とりあえず」と言った。
こちらが、ノブに、戻した「とりあえず」が、別の用件で、ノブの口から、戻ってきた。戻ってきた「とりあえず」は、こちらが言ったときの「軽く戻す」とは、別の中身を、持っていた。「いま、できているところまで」という、量と範囲の、限定だった。
「うん」と、答えた。
ノブは、東階段の方へ、降りていった。こちらは、西階段の方へ、向かった。
「とりあえず」は、こちらが軽く戻すために使うこともあれば、ノブが量を限定するために使うこともあった。同じ四音が、違う仕事を、ふたつ、していた。違う仕事をしているのに、ふたつとも、明日の打ち合わせを続けるための言葉だった。
整理しないまま、階段を、下りた。下りるあいだ、ノブの「半分と、半分」が、頭の中で、もう一回、鳴った。
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本作はジュンのシリーズ番外編「ジュンのことばのメモ」第三作の書き直し版(v2)。v1の進路指導室の場面、橋本先生・余白の読めない字、「サーチコスト」「暫定値」「近似値」「保留のコスト」の語彙、とりあえずビール段落、英語の for now 段落、「動いてから決める」の対句決め台詞、「白菜を、洗った。」の単独閉じ——これらをすべて撤去。代わりに、火曜の放課後の数学研究会の部室で、ノブの発表テーマ選びに対してジュンが言った「とりあえず」が、ノブから「ジュンらしくない」と返される、という一場面に絞った。「とりあえず」が、こちらの軽い戻しと、相手の量の限定として、同じ四音で違う仕事をしている、という観察を、機構の説明ではなく、二人の会話の中の出来事として置く。閉じは「整理しないまま、階段を、下りた」のあと、ノブの「半分と、半分」がもう一度鳴る、という宙吊り。書き手は決めない。