お母さんに、一服
茅野と、夜の台所——茅野のトロッコ問題シリーズ #2

茅野、高校二年、二組。倫理の授業でトロッコ問題を知った週の、土曜の夜。母が、リビングで、本を読んでいる。家には、私と、母の、二人だけ。父は、出張で、不在。妹は、塾。

土曜の夜

土曜の夜、家のリビングで、母が、文庫本を読んでいた。表紙は、見えなかった。柔らかい色のソファに、深く座って、足を、片方、ソファの上に折り曲げて、もう片方を、床に、おろしていた。母の、いつもの、本を読む姿勢だった。

私は、台所の、椅子に座って、お茶のことを、考えていた。

稽古の日ではないけれど、なんとなく、お茶を、点てたかった。月曜の倫理の授業から、五日が経っていた。トロッコ問題のことは、頭の中で、まだ、続いていた。続いていた、というより、ふっと、立ち上がっては、消えて、また、立ち上がる、という形で、続いていた。

稽古で点てるお茶は、自分のためのお茶だった。自分の身体に、所作を、馴染ませるために、点てる。馴染んだ、と思ったら、もう一度、点てる。誰かのために、点てるわけでは、ない。

けれど、今夜は、母に、点ててみたい、と思った。

思った、ということが、自分でも、少し、新しかった。

道具を、出す

台所の戸棚の上、奥のほうに、家の茶道具が、しまってあった。母が、若い頃に、お稽古に通っていた時の道具。今は、ほとんど、使われていない。私が、茶道部に入ったとき、母が「あれ、使う?」と聞いてきた。「うちで、点てるなら」と、私は答えて、それから、何度か、家でも、自主練のために、出していた。けれど、母に、点てたことは、なかった。

戸棚の扉を、ゆっくり、開けた。茶碗を、両手で、持って、降ろした。茶筅と、茶杓を、出した。棗を、開けて、中の抹茶の、減り具合を、確認した。半分以上、残っていた。

湯を、沸かす。電気ケトルではなく、鉄瓶を、ガスコンロで、温める。母が、結婚するときに、祖母から、譲られた、古い、南部鉄瓶。湯の沸く、低い音が、台所に、しばらく、響いた。

母は、リビングから、振り返らなかった。本を、読み続けていた。

点てる

湯が、沸いた。

茶碗を、温める。湯を、捨てる。茶杓で、抹茶を、二すくい、茶碗に、入れる。湯を、注ぐ。茶筅で、点てる。

所作は、いつもと、同じだった。

けれど、所作の、温度が、違う気がした。

稽古で点てるとき、私は、所作の、正しさを、確かめている。茶筅の、角度。茶碗の、置き場所。湯の、量。これらが、決まり通りに、できているか、を、自分の身体に、聞いている。聞いて、頷いて、また、繰り返す。

今夜は、所作の、正しさだけを、確かめていなかった。所作の、向こうに、母が、いた。母が、これを、口にする、ということを、所作の、終わりに、置いて、点てていた。

点てた、というのに、一分か、二分、かかった。お茶の、表面に、薄い、緑の泡が、整っていた。

茶碗を、両手で、持った。リビングのほうへ、歩いた。

「お母さん」

母の、ソファの前に、立った。

「お母さん」

母が、本から、顔を、上げた。

「あら、何?」

「お茶、点てた」

母は、しばらく、私の手の、茶碗を、見ていた。それから、本に、しおりを、はさんで、閉じた。

「いただきます」

母が、茶碗を、両手で、受け取った。受け取り方は、私が、稽古で、習った形と、同じだった。母が、若い頃に、習ったこと、というのは、こういう形で、まだ、母の、身体に、残っていた。

母は、茶碗を、軽く、回した。それから、ひとくち、飲んだ。

飲んでから、しばらく、何も、言わなかった。

「おいしい」と、母は、言った。

「ありがとう」と、私は、答えた。

母は、もう一度、ひとくち、飲んだ。今度も、何も、言わなかった。最後の、ひとくちまで、飲んだ。

「ご馳走さまでした」

「ご馳走さまでした」を、家で、言われたことは、これまで、たぶん、なかった。なかった、けれど、今夜は、自然に、出てきた言葉だった。

所作の、向こう

母は、空になった茶碗を、両手で、私に、返した。茶碗の、口元の、内側に、薄い、緑の、跡が、残っていた。

「お点前、整ってきたわね」と、母は、言った。

「ありがとうございます」

「岡野先生は、お元気?」

「元気です」

「先週、お祖母ちゃんに、写真、送っといた。あなたが、和室で、お茶を点ててる写真。お祖母ちゃん、喜んでた」

「そう」

「茅野家、三代目だね」と、母は、笑った。

「三代目」

「お祖母ちゃんが、母を教えて、母が、私を教えて、私が、あなたを教えてない、けど、あなたは、自分で、習いに行った」

「教えて、もらわなかったの?」

「教えなかった、というか、あなたが、自分で、決めて、入った、感じだったでしょ、茶道部」

「そう、だった」

母が、本を、もう一度、開いた。それから、また、閉じた。

「点てて、もらう、って、変な感じ」

「変?」

「うん。点てる側に、長く、いたから。点ててもらう側に、なるのは、何十年ぶりかしら」

「そっか」

「点ててもらうのも、いいわね」と、母は、言った。それから、本を、開き直して、読み始めた。

台所で、洗う

私は、台所に、戻って、茶碗を、洗った。茶筅を、清めた。茶杓を、ふいた。棗の、蓋を、閉じた。鉄瓶の、湯を、捨てた。

道具を、戸棚に、戻しながら、いま、起きたことを、整理した。

稽古で点てるお茶は、自分のためだった。所作を、自分の身体に、馴染ませるためだった。今夜のお茶は、母に、向けて、点てた。所作は、同じだった。けれど、所作の、終わりに、母の、口が、あった。母の、口が、あった、ということが、所作の、温度を、変えていた。

変えていた、というのは、所作が、別物に、なった、ということでは、ない。所作は、所作のまま、あった。所作の、向こう側に、開かれていた、ということだった。

稽古で繰り返してきた所作は、自分のためだった、と、思っていた。けれど、自分のために、繰り返した所作が、誰かのために、点てるときにも、同じ精度で、出てくる。出てくるのは、これまでの、稽古の、結果だった。結果としての所作が、誰かに、向けて、開かれる。

つまり、稽古は、自分のためでありながら、いつか、誰かに、点てるための、準備でもあった。

準備、というよりは、土台、というほうが、近いかもしれない。土台、というよりは、地続き、というほうが、もっと、近いかもしれない。

自分のための稽古と、誰かのための一服が、地続きである、ということが、たぶん、私が、今夜、知ったことだった。

夜、ベッドで

夜、ベッドで、天井を、見ていた。

トロッコ問題のことを、また、考えていた。

授業で、答えを、出すことを、求められた問い。即答した、森田。納得しなかった、アヤさん。何も言わなかった、私。

三人とも、それぞれの、形で、答えていた。あるいは、答えなかった。けれど、三人の、その日の、振る舞いは、それぞれの、これまでの、日々の、結果だった。

そして、これまでの、日々の、結果は、自分のためだけに、積まれてきたわけでは、たぶん、ない。

森田が、論理を、信頼する、習慣を、繰り返してきた、というのは、結果として、誰かのために、論理を、使える、ということでもある。事実、森田は、クラスのほうへ、論理を、出した。即答した、というのは、自分の中で、論理が、整っていた、ということで、整った、論理を、クラスに、開いた、ということでもあった。

アヤさんが、納得しないまま、考え続ける、習慣を、繰り返してきた、というのも、たぶん、自分のためだけ、ではない。納得しない、という、自分の感じ方を、許容してきた人は、誰かが、納得しないとき、そばで、納得しないまま、考え続ける、ことが、できる。アヤさんの、納得しない態度は、誰かに、開かれる、可能性を、持っていた。

私の、所作も、自分のため、というだけ、では、なかった。今夜、母に、点てた。母が、おいしい、と言った。所作が、母に、開かれた。

三人の、それぞれの、習慣は、自分の、形で、世界に、開かれていく。

形は、違う。けれど、開かれる、ということは、似ているかもしれない。

似ているかもしれない、で、止まる。

止まることが、たぶん、いまの、私の、稽古の、形だった。

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← 関連:答えは、出る(同じ二組の森田。即答する)
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【茅野のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第2話。茅野は、稽古で繰り返してきた所作を、初めて、母のために、向けた。「自分のための稽古と、誰かのための一服が、地続きである」という発見。徳倫理の核「他者性」が立ち上がる。三人——ジュンの即答、アヤの納得しない態度、茅野の所作——が、それぞれの形で、世界に開かれていく、という構造が見え始める。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。