茅野、高校二年、二組。火曜の稽古の終わり。四階の和室。私は、茶杓を、まだ箱に戻していなかった。手のなかに、まだ持っていた。
布で、ふいたあとだった。ふいたあと、箱に戻すまでの動作のあいだに、何かが、ずれた。ずれた、というのは、所作の話ではなくて、私の手のほうの話。茶杓を持つ手が、戻す動作の途中で、止まった。
茶杓は、竹でできている。竹の薄い片を、削って、丸みのある匙の形にしたもの。ひとつの茶杓に、竹の節が、ひとつ入っている。節は、茶杓の中ほど、もしくは少し先端寄りにある。茶杓ごとに、節の位置が違う。
持っているこの茶杓は、節が、中ほどよりわずかに、先端寄り。指を添えて、両端を親指と人差し指のあいだで軽く挟むと、節を中心にして、わずかに、たわむ。たわむ、というほどではない、けれど、何もしない木とは違う、竹特有の、押し戻す力がある。
指の力を抜くと、もとの形に戻る。戻った、ということは、指の感覚としてはわかるが、目で見ても、戻ったかどうかは、わからない。たわみが、見えるほどの量では、ない。
見えない量で、押し戻されている。押し戻されたぶん、私の指の腹に、わずかな圧が返ってきている。
この茶杓は、稽古場の備品で、私のものではない。誰が削ったのかは、知らない。茶杓は、茶人がひとつひとつ自作することもあれば、職人が削ることもある、と聞いたことがある。この茶杓の、削った跡は、表面に薄く残っている。竹の繊維に沿った、細かい筋。指で撫でると、進行方向に対しては滑らかで、逆方向だと、わずかに、ひっかかる。
削った人は、この茶杓を、右手で削ったのか、左手で削ったのか。右利きが多いはずだが、削るとき、利き手で刃を持って、利き手と反対の手で竹を支える。どちらの手の話をしているのかも、私にはわからない。
ただ、削った人が、この竹を、どこかで、自分の手のなかに持っていた、ということは、確かだった。指の腹で押さえて、刃を入れて、削りカスを払って、節の手前で力を抜いて、また入れる。その手の動きが、いまの私の指の腹に、間接的に、伝わっている。
伝わっている、と書くと、大げさに見える。大げさに見えるが、それより小さな言い方を、いま、思いつかない。
箱は、桐の薄い木でできている。蓋を開けると、中に、茶杓の形に合わせた薄いくぼみが、彫られている。くぼみは、茶杓の本体の、丸みのあるほうを下にして、置けるようになっている。先端の細い部分が、箱の右側。柄のほうが、左側。
くぼみは、茶杓ぴったりの大きさではなく、わずかに、余裕がある。茶杓をくぼみに置くと、上下の遊びが、薄く、ある。蓋を閉じても、茶杓が、箱のなかでカタカタ動くほどの隙間はないが、無音でぴったりおさまる、というほど詰まってもいない。
この遊びは、たぶん、湿度の変化に対応するための余裕だった。竹は、湿度で、わずかに膨らんだり、縮んだりする。膨らんだときに、ぴったり詰まっていると、箱に当たって、変形する。だから、遊びがある。
遊びがある、ということは、箱が、竹のことを、ある程度、わかっている、ということ。誰が箱を作ったのかは、これも、知らない。
箱を、開けたまま、私は、まだ茶杓を、手のなかに持っていた。戻していなかった、というより、戻すタイミングを、何度か逃した。
逃した、というのも違うかもしれない。戻す、という動作は、ふだん、考えずにやっている。考えずにできる動作は、考え始めると、できなくなる。考え始めた瞬間に、手が止まって、止まった手が、次の動きの入り口を見失う。
茶杓を、もう一度、両端で、軽く挟んでみた。竹のたわみの、押し戻す力が、また指の腹に返ってきた。先ほどと、同じ量。同じ量だと感じるけれど、本当に同じかは、わからない。一秒か二秒の違いだから、ほぼ同じだろう、と思う、というだけ。
水屋のほうから、ほかの部員が片付けをしている音が聞こえてくる。茶碗の縁が、洗い場の縁に当たる、薄い陶器の音。湯を捨てる、水の音。それぞれの音が、私の戻していない数十秒を、外から、薄く、囲んでいる。
茶杓を、くぼみに、置いた。
下の丸い面を下にして、先端を箱の右に。柄を箱の左に。一度、置いてから、左右の傾きを、目で確かめた。ほんのわずかに、先端のほうが、くぼみの中心からずれていた。指で、ほんの少し、ずらした。たぶん、二ミリか、三ミリ。
ずらしたあとに、もう一度、見た。今度は、中心に、入っているように見えた。見えた、というだけで、絶対に中心かどうかは、上から目で測っているだけだから、保証できない。保証できないが、これ以上見ても、たぶん見え方は変わらない。
蓋を、閉じた。木と木が合うときの、薄い擦れる音がした。閉じる前と、閉じたあとで、箱の重さは変わらない。けれど、私の手のなかから、茶杓の竹の弾力が、消えた。指の腹に返ってきていた、押し戻す圧が、消えた。
消えた、ということが、はっきり、わかった。さっきまであったものが、いま、ない。
箱を、定位置に戻した。地袋の中の、決まった場所。蓋を上から、閉じる。
立ち上がって、和室の引き戸の前まで歩いた。歩きながら、自分の右手の指の腹を、もう一方の指で、軽く押してみた。竹の弾力は、当然、もう、ない。指の腹のほうも、押された記憶を、はっきり保持しているわけではない。けれど、何かが、わずかに、違う。指の腹が、いつもより、外向きの感覚に、敏感になっている、ような気がした。
気がした、というのは、本当に違うのか、私が違うと思いたいのか、区別できない。区別できないので、片方に決めない。
引き戸を開けて、廊下に出た。廊下の蛍光灯が、白い。和室のなかの、傾いた橙色の光と、廊下の蛍光灯の白は、温度が違う。和室から廊下に出る、という動作のなかで、光の温度が、ぱっと、切り替わる。
水屋の前を、通った。先輩が二人、洗い場で、茶碗をすすいでいた。私の茶碗は、もう先に洗ってあったので、私は何もしなかった。会釈だけして、通り過ぎた。先輩のひとりが、私の会釈に、ちいさく、頷いた。
階段を、降りた。降りる足音が、和室で動かしていた手の動作とは、違う種類の動きだった。階段は、片足ずつ、体重を預けて、降りる。茶杓は、両端を軽く挟んで、ほぼ動かさない。動かす量と、動かす速さが、まったく違う動作のあいだを、私の身体は、十秒くらいで、移動した。
移動しながら、もう一度、右手の指の腹を、確認した。竹の押し戻す圧は、もう、思い出せない。さっきまで覚えていた、と思っていたが、実際にはもう薄くなっている。何分か後には、たぶん、ほとんど消える。火曜の夜、家に帰って、夕飯を食べているころには、消えている。
消えてから、来週の火曜、また、別の茶杓を、手のなかに持つ。別の茶杓には、別の節の位置と、別の削り跡と、別のたわみの量がある。指の腹は、それを、毎回、別物として受け取る。受け取った圧は、毎回、何分かで消える。
← v1:道具の、しまい方(下書き)
← 辛口レビュー:v1の問題点と改善方針
← 前話:同じお茶を、何回(茅野のことばのメモ #1)
→ 次話:季節の、軸(茅野のことばのメモ #3)
← 関連:話しかけない(茅野のトロッコ問題シリーズ最終話)
← 関連:茅野のトロッコ問題シリーズの種明かし
← 関連:所作の中で(茅野のトロッコ問題シリーズ #1)
← シリーズ目次に戻る
本作は茅野のことばのメモ #2 の書き直し版(v2)。v1 の道具のカタログ化(布、茶筅、茶杓、棗)、四語の英語比較(put away / store / clean up / return to its place)、岡野先生の手を到達点として配置する構造、「で、止める」「続いている、で、十分だった」の決め台詞——を撤去。代わりに、ひとつの道具・茶杓だけに絞り、茶杓を箱に戻す前の数十秒に焦点を置いた。竹の弾力、削った人の手、箱のくぼみの遊び。岡野先生は登場しない。先生の手と比較しない。指の腹に返ってくる竹の圧と、それが消える時間の話。徳倫理の「性向の習慣化」を、複数の道具の所作分解ではなく、ひとつの道具の手触りの保持と消失に、薄く漏らす書き直し。