茅野、高校二年、二組。十月の、土曜の、朝。稽古は、午前十時から。私は、九時すぎに、学校に着いた。生徒会の書類を、職員室に置きに来たついでだった。四階まで、そのまま上がった。早く来たのは、たぶん、それが、本当の理由だった。
四階の廊下は、土曜の朝の、静けさに沈んでいた。和室の引き戸が、半分だけ、開いていた。半分開いている、というのが、気になった。稽古は、四十分先。
足音を立てないように、近づいた。和室の中に、人がいた。岡野先生だった。和服ではなく、普段着のグレーのカーディガン。背中が、床の間のほうに、向いていた。先生は、何かをしている、その途中だった。途中の動作の横から、声をかけるのは、たぶん、礼ではない。引き戸の外に、立ったままでいた。
先生の手元に、軸があった。すでに巻かれている、ほうの軸。夏のあいだ、長押に掛けてあった軸を、外し終えた、その直後らしかった。
巻き終えた軸が、先生の左手に、横向きに収まっている。両端の、軸先の木が、薄い飴色をしている。先生は、それを、ゆっくり、桐箱の中へ収めた。収めるとき、軸全体を、ひと呼吸、宙で止めた。止めて、それから、薄い綿の上に、置いた。紐を結ぶ手前で、もう一度、軸の位置を、両手で、ほんの少しずらした。中央に来るように、ずらした。
桐箱の蓋を、合わせた。蓋が本体に収まるとき、わずかに、空気の抜ける音がした。木と木が、隙間なく合う音。先生は、その箱を、地袋の中に、しまった。
床の間が、何も掛かっていない状態に、なった。白い、塗り壁。長押の下の、釘が、一本、見えていた。ふだんは、軸の紐に隠れている釘が、いま、はっきり、見えている。釘の周りの壁が、ほかの場所よりも、わずかに、薄く影になっていた。夏の軸の、紐の通っていた跡、かもしれない。
その空白を、先生は、しばらく、見ていた。何もしていない時間を、床の間と、共有している、ような姿勢だった。たぶん三十秒。私のほうも、廊下で、息をしないように、していた。
先生が、地袋の、別の引き出しから、別の桐箱を出した。古い箱と、形は同じ。紐のほつれ方が、わずかに違う。中には、別の軸。巻きの太さが、夏の軸より、ほんの少し、太い。
先生は、軸を畳の中央に、横向きに置いた。上端の紐をほどき、軸先の片方を、左手で、持ち上げた。軸が、ゆっくり、ほどけていった。ほどける、と書いて、違う、と思った。軸は、広がっている。先生の左手が、上の軸先を、上のほうへ持ち上げていく。下の軸先は、紙の重みで、畳に密着して、動かない。動かない下と、上がっていく上、のあいだに、紙が、垂直に、立ち上がる。
立ち上がった紙の表面に、墨で、漢字が三文字、書かれていた。何と書かれているかは、廊下からは、よく見えなかった。
先生は、立ち上がって、軸を、両手で持ったまま、長押に近づいた。釘に紐を掛ける、その前に、軸を、もう一度、両手で持ち直した。左右の傾きを、目で確かめてから、紐を、釘に、掛けた。
軸の重みが、釘に移った。先生の手は、すぐには下がらず、軸の左右に、軽く、添えられたままだった。下端の軸木が、畳の上に、ふわっと降りた。
先生は、一歩、下がった。下がって、見た。見て、それから、もう一度、長押の下に近づき、紐の位置を、釘の頭に対して、ほんの少しだけ、左に、動かした。一ミリか、二ミリ。私の目では、動いたかどうかも、わからない。けれど、動かした。それから、また、一歩下がって、見た。そこで、先生の手が、止まった。
気配で、気づかれたらしかった。先生が、振り返った。
「茅野くん。早いね」
「すみません、見ていました」
「いいですよ。入って」
引き戸を、もう半分開けて、和室に入った。新しい軸の前まで、近づいて、座った。三文字。秋の季節を、表す文字、らしかった。けれど、文字の意味よりも、紙の白さの違いが、先に、目に来た。夏の軸の紙は、もう少し、青みがかった白。秋の軸は、すこし、黄色みのある白。
「同じ床の間に、別の白が、来ました」と、私は言った。先生は、笑って、頷いた。
「掛け軸」を、英語で、hanging scroll と教わったことがある。けれど、いま起きたことは、scroll を hang する、では、なかった。巻かれていた紙を広げて、釘に掛けて、傾きを整えて、一歩下がって、もう一度ずらして、止めた。一連の動作のなかで、季節が、入れ替わった。その移りを、英語の動詞のひとつで、拾えるのかというと、たぶん、拾えない。拾えない、で、いい。
夏の軸は、来年の初夏まで、暗い箱の中で、巻かれたまま、ある。秋の軸は、十一月の終わりごろまで、ここに掛かる。冬になれば、別の軸に、入れ替わる。
窓の外の桜の葉は、もう半分、色づいている。季節は、外でも、進んでいる。けれど、布と紙、という、たったそれだけのものの、入れ替わりにも、季節が、託されている。目に見える形になる、ということは、私のような、所作の途中の人間には、たぶん、ありがたい。
水屋のほうから、湯を沸かす、釜の音が、聞こえてきた。引き戸の向こうから、ほかの部員の足音も、聞こえてくる。シズクの声も、混じっていた。私は、床の間の前から、立ち上がった。立ち上がる、その最後の一瞬、軸の下端の軸木に、目が、もう一度、行った。先生だけが、わかる位置に、軸は、いま、止まっている。
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本作は、茅野のシリーズ番外編「ことばのメモ」の三作目。十月の土曜の朝、稽古の四十分前。茅野は、生徒会の用事のついでに、誰もいないはずの和室を覗きに行き、岡野先生がひとりで掛け軸を入れ替える場面に、廊下から、立ち会う。古い軸を桐箱に巻き戻す動作。床の間が何も掛かっていない、わずか三十秒の空白。新しい秋の軸を、畳の上で広げ、長押の釘に掛け、一歩下がって、もう一度ずらし、止めるまで。床の間という装置が、季節という、はっきりとはつかめない時間を、布と紙の入れ替わりとして、目に見える形にしている、という観察。「軸」「床の間」を訳さず、置いておく、という選択。#1#2の稽古場面ではなく、稽古前の空白の和室を主舞台にし、岡野先生の手の動きは、所作の比較ではなく、空間の入れ替わりの担い手として置いた、番外編。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)