茅野、高校二年、二組。十月の、土曜。稽古から、家に帰ってきた。十一時すぎ。母は買い物に出ていて、家には誰もいなかった。玄関で靴を脱いで、廊下を、奥のほうまで歩いた。客間の前で、立ち止まった。
うちの家には、客間がひとつある。普段は、誰も入らない。父の書類が積んである、ということもない。ただ、畳が敷いてあって、奥の壁に、半畳ぶんくらいの、小さな床の間がある。父の祖父が、昔、家を建てたときに作らせた、と聞いている。
床の間には、もう何年も、何も掛かっていない。母も父も、軸を持っていない。床の間の壁は、薄い茶色の塗り壁で、長押の下に、釘が一本、打ってある。釘は、軸を掛けるためのものだったはずだが、私が物心ついたときから、そこに何かが掛かっているのを、見た記憶がない。
床の間の畳のうえには、母が何年か前に置いた、小さな籐の籠がひとつある。籠のなかには、もう枯れた花が、活けられたまま、ある。たぶん、二年か、三年前。母が、最後に活けたまま、ずっと置いてある。乾いて、茎が縮んで、花のあった場所は、灰色の塊になっている。
客間に入って、床の間の前に、座った。座布団は、なかった。畳のうえに、直接、正座した。学校の和室の畳と、家の客間の畳は、目の細かさが違う。家の畳のほうが、繊維が、もうすこし、ささくれている。
床の間の壁の、釘を、見ていた。釘の頭は、長押の下、五センチくらいのところに、ぽつんと、打たれている。釘の周りの壁の色は、ほかの場所と、ほとんど同じ。何かを掛けていれば、紐の通った跡が、薄く影になっている、はず。けれど、何も影がない。何も掛けていない時間が、長すぎて、跡が、もう、ない。
跡がない、ということは、最初から何も掛かっていなかった、というのとは、違う。掛かっていた時期があって、跡がついて、それから、跡が薄れて、いまは消えている。父の祖父が、生きていたころは、軸が掛かっていたかもしれない。父の祖父は、私が生まれるよりずっと前に、亡くなっている。
会ったことのない人の、軸の選び方は、私には、わからない。十月には、何を掛けていたのか。秋の文字か、葉の絵か、無地の何かか。釘だけが残っていて、その上の壁の空白が、答えを持っていない。
母が活けた花の籠を、近くから見た。茎は、もとは緑だったはずだが、いまは、薄い茶色になっている。花の部分は、灰色がかった茶色で、形はもう、花の形を保っていない。葉も、ほとんど落ちて、籠の縁に、薄い破片が、いくつか溜まっている。
母が、いつ、これを活けたのか、はっきりとは覚えていない。たぶん、春か、初夏。何の花だったのかも、もう、わからない。母は、活けたあと、しばらくは水を替えていたが、ある時点で、替えるのをやめた。やめた、というより、忘れた、のほうが近い。それから、誰も、これに手を触れていない。
枯れた花は、毎日、同じ場所にあるので、私たち家族の目には、もう、ほとんど見えなくなっていた。客間に入る用事が、ない。たまに、廊下を通るとき、襖が開いていれば、ちらっと見えるが、見えていることに、気づいていない。
気づいていないあいだに、何年か、経った。経ってから、いま、土曜の十一時すぎに、私が、ひとりで客間に入って、床の間の前に座って、初めて、見ている。
枯れた花を、捨てて、籠を空にしようかと、一瞬、思った。それから、やめた。やめた理由は、はっきりしない。母に許可を取っていない、ということもあるが、それより、いま、ここで、動かしてしまうと、何かが、終わってしまう、という感じがあった。
終わってしまう、のは何か、と問われると、答えられない。枯れた花は、もう終わっている。終わっているものを、片付けるのは、終わったことを認めるだけで、新しい何かを終わらせる、わけではない。それでも、動かしたくなかった。
稽古場では、片付けは、所作の一部として、決まっている。誰かが使った道具は、必ず、誰かが片付ける。床の間に何かが掛かっていれば、季節の終わりに、必ず、外す。終わったものを、終わった形で、保存する場所が、稽古場には、ある。
家には、その場所がなかった。終わった花が、終わったまま、籠のなかにある。誰も外さない。外す係がいない。係がいないので、終わりが、きちんと、終わらない。終わらないまま、二年か三年が、ここで、固まっていた。
客間の窓は、南側に面している。土曜の午前、十一時すぎの陽が、畳のうえに、斜めに入ってきていた。私の正座している位置のすぐ手前まで、光の線が、伸びている。
光のなかに、薄く、埃が浮いて見える。家の埃は、稽古場の畳の埃と、たぶん、種類が違う。稽古場の埃には、抹茶の細かい粉が、混ざっているはず。家の埃には、私たち家族の、何かが、混ざっている。母の髪の毛、父のスーツの繊維、兄弟がいないので、私の何か。
陽が、ゆっくり動いていく。秒で見えるほどではないが、五分か十分のあいだに、光の線の位置が、畳のうえで、わずかにずれている。ずれているということは、地球が回っているということで、地球が回っているということは、季節が、いまも、進んでいるということだった。
稽古場の床の間では、季節の進行は、軸の入れ替えで、目に見える形になる。家の床の間では、入れ替えがないので、目に見えない。けれど、目に見えなくても、進行は、している。陽の角度が、毎日、わずかに変わっていく。十月の十一時の陽と、十一月の十一時の陽は、畳のうえの光の長さが、たぶん違う。
立ち上がる前に、もう一度、釘を、見た。釘の上の空白の壁を、見た。空白には、まだ、何の影もない。けれど、私が見ているという、それだけのことが、空白の壁に、何かを置いている、のかもしれなかった。私が立ち上がって、客間を出て、襖を閉めれば、私が見たということは、誰の目にも残らない。残らないけれど、空白そのものは、私が見るより前から、ずっとそこにあった。
枯れた花の籠は、触らずに、置いておく。母が買い物から帰ってきたときに、もしかすると、母が、自分から、何かするかもしれない。しないかもしれない。どちらでもいい。
立ち上がった。畳の縁に、正座のあとが、薄く残っている。何分か経つと、その跡も、消える。客間を出て、襖を、半分くらい、開けたままにしておいた。半分開けたまま、廊下を、戻った。
玄関に戻ってきた。土曜の午前の家のなかは、ほぼ無音。冷蔵庫のモーターの薄い音だけがする。私は、まだ、稽古場で着ていた服のままだった。袖口に、抹茶の薄い緑の粉が、ひとつ、ふたつ、ついている。家に帰ってから、まだ、着替えていなかった。
玄関の外で、車の音がした。母が帰ってきた、わけではなさそうな音だった。隣の家の、誰かの車が、出ていく音。
袖口の抹茶の粉を、指で、軽く、払った。粉は、玄関のタイルのうえに、ぱらっと落ちた。落ちたまま、しばらく、見ていた。それから、廊下のほうへ、戻っていった。
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本作は茅野のことばのメモ #3 の書き直し版(v2)。v1 の廊下から覗く位置取り、巻く・広げる・空白の三幕構造、岡野先生の手の動作、「同じ床の間に、別の白が、来ました」のキメ台詞、結語「先生だけが、わかる位置に、軸は、いま、止まっている」——を撤去。舞台を四階の和室から、茅野の家の客間へ、物理的に移した。家の床の間には、もう何年も軸が掛かっていない。釘だけが残っている。母が活けたまま忘れた、枯れた花の籠が、二、三年、置きっぱなしになっている。岡野先生は登場しない。お手前も片付けも出てこない。茶道は、袖口に残った抹茶の粉として、薄く混ざるだけ。徳倫理の「性向の習慣化」を、稽古場の整った床の間ではなく、家の整いきれない床の間に、薄く漏らす書き直し。