火曜の昼休み、自分の机で、購買のメロンパンを食べていた。袋は半分、開いていた。砂糖の粒が、袋のなかに、いくつか落ちていた。三口目を、噛んでいるところで、カズが、隣の椅子に、逆向きに、またがって、座った。
「お前さ、最近、なんかあった?」と、カズは言った。
口のなかには、メロンパンのまだ半分溶けていないかたまりがあった。砂糖が、舌の上で、ざらっとした。噛んでいる動きが、一回、止まった。止まったあと、また、噛み始めた。
頬の内側が、すこし、温かくなった気がした。気がしただけで、温度計で測ったわけじゃない。けれど、頬の内側が、温かくなった、と思う動作と、口の奥が、ふっと、固くなった動作が、ほぼ同時に来た。
その固くなった口の奥から、「べつに」が出た。
出る瞬間に、自分でも、すこし、聞いていた。「べ」のところで、唇が短く合わさって、すぐ離れた。「つ」のところで、舌の先が、上の歯の裏に、軽く当たった。「に」のところで、息が、口の前のほうに、抜けた。三音は、メロンパンを噛んでいる口のなかで、邪魔をしないで、抜けていった。邪魔をしないで抜けた、というのは、「べつに」が、口のいちばん前のほうだけを使って出る音だった、ということだった。口の奥は、メロンパンに使われていた。
カズは、「そっか」と言った。「そっか」だけだった。
「そっか」のあと、カズは、自分の弁当を開けた。蓋を開ける、プラスチックの軽い音がした。カズの母さんが作る、たぶん、毎週、何回か入っているらしい、煮物の匂いが、すこし広がった。
俺は、メロンパンの最後の二口を、噛み終えた。
噛み終えるあいだ、カズは、こっちを見ていなかった。煮物のほうを見ていた。煮物の人参を、箸でつまんで、口に入れた。それから、ようやく、こっちをちらっと見て、「俺、人参、最近、好きになってきた」と言った。「人参、苦手だったろ」と俺が返した。「だった」とカズは言った。話は、そこで、人参の話になった。
メロンパンの袋を、畳んだ。畳むときに、袋の底に、砂糖の粒が、五つくらい残っていた。底をつまんで、口を上にして、ゴミ箱の上で、振って、落とした。粒が、ゴミ箱のなかの、誰かのお弁当の包み紙の上に、ぱらっと、落ちた。
席に戻って、ノートを開いた。五限は英語だった。
ノートを開いたら、いまの「べつに」が、口のいちばん前のほうに、もう一度、戻ってきた。戻ってきたのは、音だけだった。「べ」のところの、唇の合わさり。「つ」の、舌の先。「に」の、息の抜け。三つが、もう一度、薄く、口の前のほうで、再生された。
再生されただけで、それ以上、何も起きなかった。何かを思い出したり、何かを後悔したり、何かを言い直したくなったり、しなかった。「べつに」は、口の前のほうで、もう一度、出て、消えた。
五限のチャイムが鳴った。英語の先生が、教室に入ってきた。テキストの何ページか、と、先生が言った。ページを、開いた。
カズは、自分の席で、テキストの上に、ノートを広げていた。「最近、なんかあった?」のことを、カズが、もう、忘れているかどうかは、わからない。忘れていてもいい、覚えていてもいい、というふうに、こっちが思っている、ということが、ノートの最初の行を引きながら、薄く、わかった。
テキストの英語の文を、声に出さずに、目で追った。読みながら、口のなかが、もう、メロンパンの砂糖の味を、ほとんど、忘れていた。忘れたなら、それで、よかった。
放課後、廊下で、カズと、すれ違った。カズは、「お疲れ」と言った。「お疲れ」と俺も返した。
カズが、人参の話の続きをしてくるかと、一瞬、思った。しなかった。お弁当箱を入れた袋を、肩に提げたまま、教室の方向に、歩いていった。
俺は、廊下のいちばん端の窓のところで、すこしだけ立ち止まった。窓ガラスに、自分の顔が、薄く映っていた。映った顔の、口元は、いつもの口元だった。昼休みに「べつに」と言った口元と、いまの口元が、違うか同じか、自分では、よくわからなかった。よくわからないまま、用具室の方向に、歩き出した。
歩きながら、メロンパンの袋の、砂糖の粒が、ゴミ箱のなかで、誰かの包み紙の上に落ちた、そのときの、ぱらっという音を、もう一度、頭のなかで、聞いた。聞いて、それから、忘れた。
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本作は中島のシリーズ番外編「ことばのメモ」第三作の書き直し版(v2)。v1の「希少な月数回」自意識、「薄いすりガラスを一枚置く距離の音」の比喩による距離装置の概念化、グラウンドの「先輩」声で未完で閉じる結尾——を撤去。代わりに、火曜の昼休みのカズとの場面に集中したまま、観察の重心を中島の身体(メロンパンを噛む口、頬の内側の温度、口の奥の硬さ、唇と舌と息の動き)に振る。「べつに」を比喩で解説しない。三音の物理だけを書く。カズの「そっか」を、メタ解説せず、煮物の匂いと人参の話で受ける。結尾は、廊下の窓に映った自分の口元と、ゴミ箱に落ちた砂糖の粒の音。決め台詞も、未完装置も、出さない。