マツモトヒナ(ポエマイゼーション:ソノダマリ)
毎日料理をしている。もう何年も。レシピを見る。「塩 適量」「こしょう 少々」「お好みでパセリを散らす」「きつね色になるまで焼く」「しんなりするまで炒める」。
ある日、ソノダさんのポエマイゼーションを読んで、手が止まった。
レシピの「適量」は、蒸発そのものではないか。
マンションポエムの「上質がそびえる」から具体性が蒸発しているように、レシピの「きつね色になるまで」から温度と時間が蒸発している。何度で何分か。書いていない。「しんなりするまで」とはどの程度か。写真もない。再現するには経験が要る。経験がない人には——これはポエムだ。
毎日レシピを読む人間として、蒸発している表現を集めてみた。ソノダさんのカタカナ暗号辞典のレシピ版だ。
| レシピの表現 | 蒸発した情報 | プロなら書くこと |
|---|---|---|
| 適量 | 何グラムか | 3g(材料の0.8%) |
| 少々 | ひとつまみとの差 | 親指と人差し指でつまんだ量(約0.5g) |
| ひとつまみ | 指何本でつまむのか | 親指・人差し指・中指の3本(約1g) |
| きつね色になるまで | 何度で何分か | 180℃で12分(表面温度150℃でメイラード反応) |
| しんなりするまで | 体積がどれだけ減るか | 中火3分、体積が2/3になるまで |
| お好みで | 何が「好み」の範囲か | (プロは書かない。配合が決まっている) |
| ひと煮立ちさせる | 何秒間か | 沸騰後30秒 |
| さっと茹でる | 何秒か | 沸騰した湯で15〜20秒 |
| よく混ぜる | 何回、どの方向に | ボウルの底から返すように30回 |
| 弱火でコトコト | 何ワットで何分か | IH 3(約500W)で20分、蓋をして |
10個並べて気づく。蒸発しているのは全部「数値」だ。グラム、度、分、秒、回数。具体的な数字が消えて、感覚的な表現だけが残っている。ソノダさんの言葉を借りれば、「具体性が失われ、印象と感情だけが残る現象」——ポエマイゼーションの定義そのものだ。
「アジャイルでスケーラブル」から反復型開発の定義が蒸発するように、「きつね色になるまで」から温度と時間が蒸発している。残るのは「なんかいい感じ」という印象だけ。
ソノダさんのDXポエム#2に「バズワード偏差値表」がある。SaaS企業のTier別にポエム密度が変わる。Tier 1(GAFAM)はポエム不要、Tier 3(スタートアップ)はポエムだらけ。上位は具体的、下位はポエム。
レシピにもまったく同じ構造がある。
| 偏差値 | レシピの出典 | ポエム密度 | 代表表現 |
|---|---|---|---|
| 75 | 製菓・製パンの技術書 | ゼロ。全部数字 | 「薄力粉120g、バター80g、砂糖60g。170℃で14分」 |
| 70 | プロの料理人のレシピ本 | 極めて低い | 「塩 肉の重量の1.2%」「180℃で12分」 |
| 60 | 料理研究家のレシピ本 | やや低い | 「塩 小さじ1/2」「中火で3分」 |
| 50 | 雑誌の付録レシピ | 中程度 | 「塩こしょう 適量」「きつね色になるまで」 |
| 40 | レシピサイトの投稿レシピ | 高い | 「お好みで」「いい感じになるまで」 |
| 30 | おばあちゃんの口伝え | 完全ポエム | 「ちょっと入れて」「もうちょいかな」「あんたが美味しいと思うまで」 |
この表は、DXポエム#2のTier表と完全に同じ構造だ。
SaaSのTier構造とレシピのTier構造
上位は具体的、下位はポエム。この法則は業界を問わない。
高校パンフ#2では「偏差値が低いほど言葉が増える」と書いた。レシピでは「読者の技術レベルが低いと想定されるほどポエムが増える」。しかし理由が違う。高校パンフは「書けないから」ポエムになる。レシピは「書いても伝わらないから」ポエムになる。
「きつね色になるまで焼く」。
この一文には、少なくとも以下の情報が蒸発している。
答えを言おう。きつね色とは、メイラード反応が起きた状態だ。アミノ酸と還元糖が加熱により反応して褐色化する、化学反応の結果。表面温度はおおむね150℃前後。その温度に達するまでの時間は、素材の水分量、厚さ、初期温度、加熱方式によって変わる。
プロのパティシエのレシピには「170℃のオーブンで14分」と書いてある。メイラード反応が起きる条件を温度と時間に変換しているからだ。家庭用レシピにはそう書けない。家庭のオーブンは機種によって温度が20℃はずれる。フライパンなら火力も鍋の材質も違う。だから「きつね色になるまで」と書くしかない。
「きつね色になるまで」は怠慢ではない。変数が多すぎて数値化できないから、ゴール(見た目)だけを示しているのだ。SaaSのLPが「貴社に最適なソリューション」と書くのとは、蒸発の構造が違う。レシピの蒸発には理由がある。
ここがマンションポエムとの決定的な違いだ。「上質がそびえる」の蒸発には技術的な理由がない。「きつね色になるまで」の蒸発には、家庭の台所という変数が多すぎる環境への適応という理由がある。
偏差値表で最下段に置いた「おばあちゃんの口伝え」。これは冗談で書いたのではない。
義母の肉じゃがのレシピを聞いたことがある。
「じゃがいもはこのくらいに切って、お肉はちょっと多めに。お砂糖はどばっと。お醤油はじゃーっと。あとは蓋してコトコト。ぐつぐつしたらもう少し弱くして。味見して、ちょっと甘いかなくらいがちょうどいいの」
数値がひとつもない。「このくらい」「ちょっと多め」「どばっと」「じゃーっと」「コトコト」「ぐつぐつ」「ちょっと甘いかな」。全文がオノマトペと主観でできている。
しかし義母の肉じゃがは、毎回同じ味がする。
これが暗黙知だ。身体に染みついた計量が、言語化を経由せずに手を動かしている。「どばっと」は義母の手にとっては大さじ2と少し。「じゃーっと」は3秒間注ぐこと。本人はそうと知らずに、毎回同じ量を入れている。
暗黙知と蒸発の関係
SaaSの「アジャイル」は、定義を知っている人が意図的にぼかして蒸発させている。おばあちゃんの「どばっと」は、本人が数値をそもそも言語化したことがない。
前者は消去(都合が悪いから消す)に近い。後者は純粋な蒸発(言語化の過程で具体性が自然に失われる)だ。悪意のない蒸発——それがレシピポエムの本質だ。
タカハシさんのラーメンポエムは、食べる側から見たポエマイゼーションだった。壁の張り紙の「魂の一杯」「こだわり抜いたスープ」。あれは客に向けたポエムだ。読者は消費者。
レシピポエムは逆だ。作る側に向けたポエム。読者は生産者。
| ラーメンポエム (タカハシ) |
レシピポエム (本稿) |
|
|---|---|---|
| 読者 | 食べる人(消費者) | 作る人(生産者) |
| 目的 | 買わせる(販売促進) | 作らせる(再現支援) |
| 蒸発の原因 | 意図的(都合の悪い情報を消す) | 構造的(変数が多すぎて数値化できない) |
| 補填の対象 | 味の弱さを言葉で埋める | 技術の不在を「お好みで」で埋める |
| 再現性 | 関係ない(一回食べれば終わり) | 致命的(再現できないと料理が失敗する) |
ここが重要だ。マンションポエムの「上質がそびえる」を信じて損をするのは、買った後だ。しかしレシピポエムの「きつね色になるまで」を読み違えて損をするのは、今夜の食卓だ。
ラーメンの壁のポエムを笑っても、ラーメンの味は変わらない。しかしレシピのポエムを読み違えると、クッキーは焦げ、野菜はべちゃべちゃになり、肉じゃがは味が薄い。レシピポエムには実害がある。
レシピポエムの中で最も罪深い表現は「お好みで」だ。
「お好みでパセリを散らす」「お好みで七味をかける」程度なら問題ない。しかし実際のレシピサイトには、こういうものがある。
「塩こしょう お好みで」
「砂糖 お好みで」
「煮込み時間 お好みで」
味の根幹が「お好みで」なのだ。
料理経験が10年ある人にとって、「塩こしょう お好みで」は問題ない。身体が適量を知っている。しかし初めて料理をする人にとって、「お好みで」は放棄だ。好みがまだ形成されていないのだから。
これは育児用品ポエムで書いた構造と似ている。育児用品の「赤ちゃんにいちばんを」が、初めて育児をする親の不安を利用するように、レシピの「お好みで」は、初めて料理をする人の不安を利用している——ただし無自覚に。
マンションポエムの「上質がそびえる」は、読む側に判断を委ねているふりをして実は誘導している。レシピの「お好みで」は、読む側に判断を委ねて本当に放り出している。どちらが不親切かと言われたら、私は後者だと思う。広告はそもそも信用しなければいい。レシピは信用しないと作れない。
偏差値表の上位に置いた製菓の技術書を、もう少し見てみよう。
プロのパティシエのレシピはこうだ。
「薄力粉 120g
無塩バター 80g(室温に戻す。指で押して軽くへこむ程度、15〜18℃)
グラニュー糖 60g
卵黄 1個(Mサイズ、約18g)
バニラオイル 2滴
170℃に予熱したオーブンで14分。焼き上がりの目安:縁が薄い茶色、中央は白いまま。天板ごとラックに乗せ、5分冷ます」
ポエムがない。全部数字だ。「お好みで」がない。「適量」がない。「きつね色」すら「縁が薄い茶色、中央は白いまま」と分解されている。
なぜか。製菓は化学だからだ。バターの温度が2℃変われば生地の状態が変わる。砂糖が5g違えば食感が変わる。オーブンの温度が10℃違えば焼き色が変わる。変数の影響が大きすぎて、「お好みで」と書いた瞬間に再現性が崩壊する。
逆に言えば、「お好みで」「適量」と書けるレシピは、変数の影響が小さいということだ。味噌汁の味噌が大さじ1と大さじ1.5で「失敗」にはならない。どちらも味噌汁だ。しかしマカロンのメレンゲの砂糖が60gと75gでは、まったく別の物体ができる。
ポエム密度と許容誤差の関係
SaaSのTier構造と同じだ。Tier 1(AWS)は仕様書がある——誤差が許されない世界ではポエムが生存できない。Tier 3はポエムでも売れる——誤差が許される世界だからだ。
ソノダさんの全シリーズに共通する結論は「具体性を要求すること」だった。レシピポエムにも同じことが言える。ただし相手が広告主ではなく自分自身だから、やり方が違う。
レシピポエムを解読する3つの方法
高校パンフ#6の「実物を見に行け」、DXポエム#6の「トライアルで内見しろ」と同じ構造だ。レシピなら「自分の手で測って確かめろ」。ポエムを解読する方法は、いつも同じだ。自分の目と手で、具体性を取り戻すこと。
レシピのポエマイゼーションは、マンションポエムやSaaSポエムとは性質が違う。
マンションポエムの蒸発は、売る側の戦略だ。SaaSポエムの蒸発は、差別化できない苦しさだ。しかしレシピの蒸発は、台所の変数が多すぎるという物理的制約から来ている。コンロの火力は家ごとに違う。鍋の厚さも違う。食材の鮮度も違う。「180℃で12分」と書いても、あなたの台所では160℃かもしれない。
だからレシピは「きつね色になるまで」と書く。それは怠慢ではなく、環境の差異を吸収するための、最も堅牢な指示だ。温度が違っても、鍋が違っても、「きつね色」という視覚情報は同じだ。ポエムが、むしろ正確な指示になっている。
レシピは、善意のポエムである。
「お好みで」は、あなたの台所への信頼である。
——とはいえ。初めてクッキーを焼く人に「きつね色になるまで」は、やっぱりポエムだ。義母の「どばっと」で肉じゃがを再現するのは、やっぱり不可能だ。善意であることと、伝わることは、別の話だ。
毎日料理をしている人間として言う。レシピのポエムは、作り続けることでしか解読できない。「きつね色」がわかるようになるのは、3回焦がした後だ。「適量」がわかるようになるのは、しょっぱい味噌汁を3回作った後だ。失敗が、暗黙知になる。暗黙知が、次の「適量」になる。
ソノダさんのポエマイゼーションは「ポエムを愛でながら、騙されない」と結んだ。私はこう結びたい。
ポエムで料理をしながら、ポエムを自分の数字に変えていく。
それが、台所に立ち続けるということだ。