ソノダマリ(IT業界事情:ナカムラタクミ)
匂わせ暗号#1で、不動産広告の暗号辞典を作った。「閑静な住宅街」→「駅から遠い」。「日当たり良好」→「他にアピールポイントがない」。暗号を平文に戻すだけで、広告の景色が一変した。
ナカムラに言った。「あの辞典、IT業界版も作りたい」
「作れるどころか、IT業界のほうが暗号だらけだよ。しかも全部カタカナだから、余計にタチが悪い」
| 暗号 | 本来の意味 | LPでの意味 |
|---|---|---|
| アジャイル | スプリント単位で反復する開発手法(スクラム等) | なんか速そう |
| スケーラブル | 負荷増大に応じてリソースを拡張できる | なんか大きくなりそう |
| レジリエント | 障害発生時に自動回復できる | なんか強そう |
| ロバスト | 想定外の入力や外乱に対して安定動作する | 壊れなさそう |
ナカムラ:「『アジャイル』はいちばんひどい。もとは具体的な開発プロセス——スプリント計画、デイリースタンドアップ、レトロスペクティブ——なのに、LPに書かれると『うちは速いです』程度の意味になる。アジャイル開発をやっていなくても『アジャイルな組織』と名乗れる」
不動産の「閑静な住宅街」と同じだ。「閑静」の定義は曖昧。「アジャイル」の定義もLPでは曖昧。暗号は、定義を曖昧にすることで成立する。
| 暗号 | 本来の意味 | LPでの意味 |
|---|---|---|
| データドリブン | 意思決定をデータ分析に基づいて行う | なんか賢そう |
| エビデンスベースド | 根拠に基づく実践(医学用語が起源) | 根拠ありそう |
| PDCAサイクル | デミングの品質管理手法(Plan-Do-Check-Act) | ちゃんとやってそう |
| KPI | 重要業績評価指標(Key Performance Indicator) | 数字で管理してそう |
「データドリブン」は面白い例だ。「データに基づいて判断する」——そう訳せば当たり前のことだ。データに基づかない判断のほうが問題だろう。しかし「データドリブン」とカタカナで書くと、特別な能力を持っているかのように聞こえる。
不動産の「南向き」に似ている。南向きは事実。しかし匂わせ暗号#1で書いたように、「南向き」を前面に出すのは他にアピールポイントがないときだ。「データドリブン」を前面に出すSaaS企業も、同じかもしれない。
| 暗号 | 本来の意味 | LPでの意味 |
|---|---|---|
| シームレス | 複数システム間で継ぎ目のない統合 | なんかスムーズそう |
| ワンストップ | 一つの窓口で全手続きが完結 | 全部できそう |
| エンドツーエンド | 入力から出力まで一貫した処理 | 全部やってくれそう |
| オールインワン | 必要な機能をすべて一つに統合 | とりあえず全部入り |
ナカムラ:「統合系は高校パンフの『文武両道』と同じなんだよね。『シームレス』も『ワンストップ』も『オールインワン』も、要するに『なんでもできます』って言ってる。でも何でもできるツールは、何かが中途半端なことが多い」
高校パンフ#2の偏差値50台。「文武両道の伝統。充実した設備」——何でもあるが突出するものがない。「オールインワン」は、突出する機能がないことの変装かもしれない。
| 暗号 | 本来の意味 | LPでの意味 |
|---|---|---|
| DX | デジタル技術による事業モデルの根本的変革 | IT化っぽいこと全般 |
| イノベーション | シュンペーターの「創造的破壊」 | なんか新しそう |
| ディスラプション | クリステンセンの「破壊的イノベーション」理論 | 業界壊しそう |
| パラダイムシフト | クーンの科学革命論における認識枠組みの転換 | すごい変化が起きそう |
「イノベーション」の本来の意味はシュンペーターの「創造的破壊」——既存の産業構造を根底から覆す変革だ。「ディスラプション」はクリステンセンの「破壊的イノベーション」理論。「パラダイムシフト」はクーンの科学革命論。どれも学術用語から借りてきた重い概念だ。
しかしSaaS企業のLPでは、勤怠管理ツールに「イノベーション」と付き、経費精算ソフトが「DXを加速」し、チャットツールが「パラダイムシフト」を謳う。言葉のインフレ。マンションポエムの「上質」と同じで、全員が使えば誰も特別ではない(S2#6)。
| 暗号 | 本来の意味 | LPでの意味 |
|---|---|---|
| エンタープライズグレード | 大企業の要件(セキュリティ・可用性・監査対応)に耐える品質 | 高そう |
| コンプライアンス | 法令・規制・社内規程の遵守 | ちゃんとしてそう |
| ガバナンス | 組織の統治構造と意思決定の透明性 | 管理が行き届いてそう |
| SLA | Service Level Agreement。稼働率や応答時間の保証契約 | 保証してくれそう |
安心系は、高校パンフの「面倒見がいい」(#2)と同じ機能だ。親が「面倒見がいい」に弱いように、企業の決裁者は「エンタープライズグレード」に弱い。不安を解消する言葉は、定義が曖昧でも効く。
| 不動産暗号 | IT暗号 | 共通の機能 |
|---|---|---|
| 閑静な住宅街 | エンタープライズグレード | 良く聞こえるが定義が曖昧 |
| 日当たり良好 | スケーラブル | 他に言うことがないとき出てくる |
| リフォーム済み | アジャイル導入済み | 具体的に何をしたかは不明 |
| 充実の設備 | オールインワン | 突出する特徴がないことの変装 |
| 面倒見がいい | 手厚いサポート体制 | 不安を解消する万能語 |
業界が違うだけで、暗号の機能は同じ。変装の原理(匂わせ暗号#1)はどこにでもある。
#1で触れた問いを深堀りする。なぜカタカナだと暗号になるのか。
「俊敏な開発プロセス」と書けば、「何が俊敏なのか? リリースサイクルは何週間か?」と問える。検証可能だ。
「アジャイルな開発プロセス」と書くと、問いにくくなる。「アジャイル」が専門用語のように聞こえるから、素人は質問をためらう。カタカナの壁が、問いのハードルを上げる。
マンションポエムS1#7でマークが指摘した和製英語の問題と同じだ。「プラウド」は英語話者には「傲慢」だが、日本語話者には「高級感」に聞こえる。言語の壁が意味を変える。カタカナは、日本語の中に「外国語の壁」を作り出す装置だ。
テスト:カタカナを全部日本語に置き換えてみよう。
「アジャイルでスケーラブルなエンタープライズグレードのソリューション」
↓
「俊敏で拡張可能な大企業向け品質の解決策」
↓
……それで、具体的に何ができるの?
日本語にした瞬間、「何ができるのか」が問える。カタカナのときは問えなかったのに。これがカタカナ暗号の正体だ。
20語の暗号を解読した。ここに挙げた言葉がLPに出てきたら、「本来の意味」の列を思い出してほしい。そして「LPでの意味」の列——「なんか○○そう」——に自分が流されていないか確認してほしい。
ナカムラの最後の助言。
「カタカナを全部日本語に置き換えてみて。
それでも意味が通る文章だけが、本物」
匂わせ暗号#6で「暗号を見抜く技術」をまとめた。高校パンフ#6で「パンフの読み方」を15歳に教えた。このカタカナ暗号辞典は、40代の部長のための「LPの読み方」だ。