ソノダマリ(IT業界事情:ナカムラタクミ)
前回、企業規模別のバズワード偏差値表を作った。Tier 2(上場SaaS)が数字で勝負していることがわかった。しかしSaaS企業のLPには、数字やバズワードの他にもう一つ、強力なコンテンツがある。「導入事例」だ。
「お客様の声」「成功事例」「ケーススタディ」——名前はさまざまだが、やっていることは同じ。ある企業が製品を使って成功した話を載せている。客観的なデータに見える。しかし——
深夜のテレビ通販を思い出してほしい。
「飲み始めて3日で、朝のスッキリ感が違うんです!」
※個人の感想であり、効果・効能を保証するものではありません
画面いっぱいに笑顔の体験者。しかし画面の端に小さな文字。打消し表示だ。薬機法で「効く」とは言えないから、「個人の感想」で迂回する。効果を約束しないが、効果があったかのような印象を与える。
ナカムラに聞いた。「これ、SaaSにもあるよね?」
「あるある。『導入事例』がまさにそれ」
SaaS企業のLPにある「導入事例」を読んだことがあるだろうか。構造はほぼ共通している。
典型的な導入事例の三幕構成
Beforeは必ず暗い。Afterは必ず明るい。ナカムラ:「中間がないの。導入直後の混乱、社員の抵抗、設定に3ヶ月かかったこと——全部カットされてる。Before→Afterの間にある泥臭い現実が消えている」
これは健康食品の「使用前→使用後」と同じ構造だ。そしてマンションのモデルルーム(高校パンフ#4)と同じ構造でもある。最悪の状態と最高の状態だけを見せて、日常を消去する。消去の原理(S2#10)がここにも。
匂わせ暗号#2-#3で解読した「距離の暗号」「面積の暗号」。「徒歩15分」の定義、「専有面積70㎡」の壁芯か内法か。数字は客観的に見えるが、定義に暗号が潜んでいた。
導入事例の数字にも同じ暗号がある。
高校パンフ#2の「国公立合格128名」を思い出す。延べ人数か実人数か。定義を問わなければ数字の意味はわからない。SaaSの導入事例も、数字を鵜呑みにしてはいけない。
高校パンフ#4で、パンフレットに写る生徒は「選ばれた生徒」だと書いた。明るくて、見た目が整っていて、成績もいい生徒。「この学校に来るとこうなれますよ」というシミュラクル。
導入事例も同じだ。事例に登場する企業は、最も成功した企業。導入してうまくいかなかった企業は載らない。解約した企業は載らない。「導入したが結局使わなくなった」企業は載らない。
ナカムラ:「導入事例の取材先を選ぶのは、マーケティング部門。いちばん話が映える企業を選ぶ。大手の名前があれば説得力が増すから、大手を優先する。中小企業でうまくいった話より、誰もが知っている企業でうまくいった話のほうが効く」
これは生存バイアスと選択バイアスの合わせ技だ。成功した事例だけが生き残り(生存バイアス)、その中からさらに映える事例が選ばれる(選択バイアス)。
マンションポエムS1#13の「負の空間」がここにもある。導入事例に「載っていない企業」のことを考えなければ、全体像は見えない。
健康食品の広告には、法的に打消し表示が義務付けられている。「※個人の感想です」「※効果を保証するものではありません」。小さい文字ではあるが、存在はする。
SaaSの導入事例にはどうか。
「業務時間50%削減」に「※特定の条件下での結果であり、すべての企業に同様の効果を保証するものではありません」と書いてあるか?
ほとんどない。
ナカムラ:「健康食品は薬機法と景品表示法で縛られてる。SaaSの導入事例には、そういう規制がほぼない。だから『業務時間50%削減』と堂々と書ける。打消し表示なしで」
マンションポエムが生まれた理由は表示規約だった(S1#1)。「最高」と言えないからポエムで包んだ。しかしSaaSの導入事例は逆だ。規制がないから、ポエムを「データ」の顔で堂々と出せる。打消し表示がない分、健康食品の「※個人の感想です」よりむしろ巧妙だ。
健康食品:効果を言えない → 「個人の感想」で迂回 → 打消し表示あり
マンション:「最高」と言えない → ポエムで迂回 → 規約の範囲内
SaaS導入事例:規制がほぼない → 「データ」の顔をしたポエムがそのまま出る → 打消し表示なし
導入事例は客観的なデータに見える。企業名、担当者名、具体的な数字。しかしその構造を分解すると、ポエムと同じ原理が動いている。
ナカムラが最後にこう言った。
「導入事例を読むときは、
載っていない企業のことも考えろ。
成功した10社の裏に、
黙っている100社がいるかもしれない」
高校パンフ#3でカワセトモコが言った「書いてないものは何か」。まったく同じ問いが、SaaSの世界にもある。