ソノダマリ × マツモトヒナ
平日の午後。前回と同じカフェ、同じ窓際の席。アイスカフェラテとホットチャイ。
ヒナちゃんから「話したいことがある」とLINEが来たとき、絵文字がなかった。ヒナちゃんのLINEに絵文字がないのは、たぶん初めてだ。
マツモト「ソノダさん、ちょっと聞いてほしいことがあって」
ソノダ「うん」
マツモト「……もう一人、ほしいかもしれない」
ソノダ「…………」
マツモト「子ども。もう一人」
ソノダ「うん。聞いてる」
マツモト「でも『ほしいかもしれない』なの。『ほしい』じゃなくて。この『かもしれない』が取れなくて、ずっとぐるぐるしてて」
ソノダ「……いつから?」
マツモト「わからない。半年くらい前から、ぼんやり。最近はっきりしてきた。保育園にお迎えに行くと、赤ちゃんクラスの子たちがいるでしょ。あの匂い。あの重さ。抱っこしたときの、ぐにゃってなる感じ。あれを思い出すと、胸のあたりがぎゅってなる」
ソノダ「……うん」
マツモト「で、思うの。これはポエムなのかなって」
ソノダ「ポエム?」
マツモト「育児用品ポエムを書いたでしょ、私。あのとき分析したの。育児雑誌の特集とか、SNSの投稿とか。『二人目がいると兄弟で遊んでくれるから楽だよ』とか。『きょうだいがいる子は社会性が育つ』とか。『年が近いほうが一緒に遊べる』とか」
ソノダ「うん」
マツモト「全部、補填だってわかるの。不安の空白に、やわらかい言葉が入り込んでくる。『兄弟で遊んでくれるから楽』——そんなの最初の2年は地獄だよ。上の子の赤ちゃん返りと下の子の夜泣きが同時に来る。知ってる。仕事で何十家庭も見てきた」
ソノダ「……」
マツモト「『赤ちゃんのいる暮らし♡』はポエム。ハートマークつきの。罪悪感マーケティングの逆バージョン。罪悪感じゃなくて、憧れマーケティング。新生児の写真。ふわふわの肌着。小さい靴下。あれはモデルルームなの。赤ちゃんのいる暮らしのモデルルーム」
ソノダ「……ヒナちゃん、自分で全部解体してるじゃん」
マツモト「そう。解体できちゃうの。解体できるのに、胸がぎゅってなるのが止まらない。それが問題なの」
ポエムの構造を知っている。補填も変装も蒸発も見える。
でも見えても、感情は止まらない。
——それが「自分の人生」にポエムが関わるということだ。
ソノダ「旦那さんには話した?」
マツモト「……」
ソノダ「話してない」
マツモト「話せない。前に話したでしょ、3語問題。『疲れた』『ありがと』『おやすみ』。あれ、ちょっとだけよくなったの。ソノダさんに言われた通り、『お疲れさま』を足してみた。旦那も少し言葉が増えた。4語くらいにはなった」
ソノダ「ポエムの保存則」
マツモト「うん。でもね、4語の世界で『もう一人ほしい』は言えない。4語は日常を回すための言葉。お互いを壊さないための最低限。そこに人生を変える爆弾を投げ込めない」
ソノダ「……」
マツモト「しかもね。旦那がどう思ってるかわからない。ほしいのか、ほしくないのか。聞くのが怖い。『いらない』って言われたらどうしよう。『いる』って言われても——本当に覚悟あるの?って思う。どっちの返事が来ても怖い」
ソノダ「……ポエムフリーの恐怖だ」
マツモト「え?」
ソノダ「キリシマさんの実験。メールからポエムを消したら殺伐とした。あれは、言葉のクッションを全部外したからだよ。ヒナちゃんが怖いのは、旦那さんの返事がポエムなしで返ってくること。『いらない』も『いる』も、ポエムで包まれていない生の言葉。クッションなし。そりゃ怖い」
マツモト「……ソノダさん、それ正しいけど、何の解決にもなってない」
ソノダ「ごめん。うん。わかってる」
3語の世界で、人生を変える問いは投げられない。
でも3語を100語にしてからでは、たぶん遅い。
マツモト「お金の話していい?」
ソノダ「いくらでも」
マツモト「子ども一人育てるのに2,000万って言うでしょ。あれ自体がポエムだと思うけど——内訳も前提も家庭によって全然違うから——でも、数字は数字で、重い。保育料。食費。服。習い事。学費。今の生活で回ってるのは、旦那と二馬力だから。私が産休に入ったら一馬力。そのあと復帰できる保証もない」
ソノダ「……」
マツモト「前のカフェトークで、冷凍食品はデータだって言ってくれたでしょ。栄養成分表示がある。キャラ弁はポエム。今の私の家計は、冷凍食品なの。カロリーも予算も全部計算してある。もう一人産むというのは、その計算を全部やり直すということ」
ソノダ「……データの世界の話だね。ポエムじゃなくて」
マツモト「そう。ポエムで包めない。『なんとかなるよ♡』って言ってくれる人はいる。SNSにもいる。ママ友にもいる。でもそれ、補填だよね。不安の空白にやわらかい言葉を詰めてるだけ。実際の保育料は1円も減らない」
ソノダ「……」
マツモト「年齢もある。私、もう38だよ。あと1年か2年が、たぶんリミット。体力的にも。医学的にも。これもデータ。ポエムで変装させられない。『まだ若い』って言ってくれる人もいるけど、卵子の数は言葉で増えない」
チャイが冷めていた。ヒナちゃんは気づいていない。
「なんとかなるよ」は情報量ゼロ。
でもこの場面では、愛情量もゼロに近い。
ヒナちゃんが必要としているのは、「お疲れさま」ではなく、スペックシートだ。
ソノダ「……正直に言っていい?」
マツモト「うん」
ソノダ「私、何も言えない」
マツモト「……」
ソノダ「ポエムの分析はできる。『なんとかなるよ』が補填だって指摘できる。『きょうだいがいると社会性が』が変装だって指摘できる。でもそれは、ヒナちゃんの問いに対する答えじゃない。構造を示すことと、判断を支えることは違う」
マツモト「……」
ソノダ「私は子どもを育てたことがない。36歳、独身。マッチングアプリのプロフィールすら書けない人間が、もう一人産むかどうかの相談に何を言える?」
マツモト「ソノダさん——」
ソノダ「育児用品ポエムの記事、ヒナちゃんが書いたとき、私はフレームワークを提供しただけ。6つの操作。罪悪感マーケティングの構造。分析の道具。でもあの記事がすごかったのは、ヒナちゃんの経験が入ってるからだよ。何十家庭も見てきた人の目。私にはあれがない。この問題には、分析の道具が役に立たない」
マツモト「……うん」
ソノダ「『もう一人ほしいかもしれない』のか、『もう一人ほしいと思いたい自分がいる』のか、それとも『ほしくないのに社会がほしいと思わせてくる』のか。それを見分ける道具は、たぶんポエマイゼーションにはない。これは分析じゃなくて、ヒナちゃんの感情だから」
しばらく黙った。窓の外を人が歩いている。
マツモト「……でもさ、今のソノダさんの言葉、すごく助かった」
ソノダ「え? 何も言ってないよ」
マツモト「『何も言えない』って言ってくれた。それが助かった。みんな何か言うの。『産んだほうがいいよ』『一人っ子でもいいじゃん』『若いうちに』『お金はなんとかなる』。全部、ポエムで包んで投げてくる。ソノダさんだけだよ、包まないで渡してくれたの」
「産んだほうがいいよ」は補填。
「一人っ子でもいいじゃん」も補填。
どちらも相手の不安にやわらかい言葉を詰めている。
「何も言えない」は——ポエムフリー。
殺伐としているはずなのに、なぜかいちばんやさしかった。
マツモト「ねえ、思ったんだけど」
ソノダ「うん」
マツモト「育児用品ポエムを書いたとき、私、すごく楽しかったの。罪悪感マーケティングの3段構造。オーガニックの変装。暗号辞典。分析するのが楽しかった。広告のからくりが見えるのが気持ちよかった」
ソノダ「うん」
マツモト「でもそれは、他人の広告だったから。哺乳瓶の広告。ベビーカーの広告。おむつの広告。全部、誰かが作ったポエム。私は外側から見ていた」
ソノダ「……」
マツモト「今、自分がぐるぐるしてるのは、広告じゃない。誰も書いてくれないコピーなの。『もう一人産むかどうか』のキャッチコピーは、世界のどこにもない。SNSの体験談はある。でもあれは他人のデータ。自分の人生のコピーは、自分で書くしかない。そしてコピーライティングの技術が通用しない」
ソノダ「——わかるよ、それ」
マツモト「え」
ソノダ「私もそうだから。ポエムの構造を100本分解した。でも自分のマッチングアプリのプロフィールは書けない。ヒナちゃんは育児用品のポエムを解体した。でも自分の人生の最大の選択で、ポエムに頼れない。——同じだよ。分析者は、自分の問題にだけ分析が効かない」
マツモト「……なんでだろう」
ソノダ「他人のポエムは、テキストだから。文字列。画面の向こう。切り取って、並べて、構造を抜き出せる。でも自分の問題は、身体の中にあるから。胸がぎゅってなる。お腹のあたりが重い。それはテキストじゃない。分析できない」
医者は自分の手術ができない。
弁護士は自分の離婚で泣く。
ポエムの分析者は、自分の人生をポエムで包めない。
専門性は、自分自身の前で無力になる。
アイスカフェラテの氷が全部溶けた。薄い茶色の水になっている。
マツモト「ごめんね、重い話して」
ソノダ「謝らないで」
マツモト「でもソノダさん、困ったでしょ。答えがないのに聞かされて」
ソノダ「困った。正直に言うと、すごく困った。でもね、ヒナちゃん」
マツモト「うん」
ソノダ「育児用品ポエムのまとめで、ヒナちゃん書いたでしょ。『広告は不安を補填する。私は大丈夫を補填する。同じ補填でも方向が逆だ』って」
マツモト「うん」
ソノダ「今日の私は、大丈夫すら補填できない。不安を埋める言葉も、安心を渡す言葉も、持ってない。空っぽ。でもたぶん——たぶんだけど——空っぽのまま隣にいることにも、意味がある」
マツモト「……」
ソノダ「リンメイファさんが言ってた。『お体にお気をつけてくださいね』は情報量ゼロだけど愛情量100%。今日の私は、情報量もゼロ、愛情量は——わからない。測れない。でも聞くことはできた。最後まで聞いた。それだけ」
マツモト「…………うん」
マツモト「……それだけで、いいんだと思う」
補填も、変装も、蒸発も、消去も、増幅もしなかった。
ポエマイゼーションの操作を、ひとつもしなかった。
ただ聞いた。
それは、操作を全部知った上で、何も操作しないということ。
——6つの操作の外側に、「聞く」がある。
カフェを出た。前回と同じ、名古屋駅の方向。
もう一人ほしいかどうかは、決まっていない。旦那さんに話すかどうかも、決まっていない。経済的に成り立つかも、年齢的に間に合うかも、体力が持つかも、決まっていない。
前回は「何も解決していない」と書いた。今回は、解決以前だ。問いすら定まっていない。「ほしい」なのか「ほしいかもしれない」なのか、それすら。
マツモト「ソノダさん」
ソノダ「うん」
マツモト「今日の話、旦那にもこういうふうに聞いてもらえたらいいのにな」
ソノダ「……4語を、『聞く』の1語にするだけでいいのかもしれないよ」
マツモト「……『聞く』って、ポエムじゃないよね」
ソノダ「ポエムじゃない。データでもない。聞くは、聞くだよ。分類できない」
マツモト「ソノダさんらしくない」
ソノダ「うん。でもヒナちゃんの問題が、分類できない問題だから」
「赤ちゃんのいる暮らし♡」はポエム。
「もう一人産む」は事実の決断。
ポエムは分析できる。事実は、引き受けるしかない。
何も決まっていない。
でもヒナちゃんが「話したいことがある」と、
絵文字なしで送ってきたこと。
それだけが、今日のたったひとつの事実だ。
本稿で触れた記事: