ソノダマリ × カワセトモコ
久しぶりにカワセさんの家に行った。名古屋・白壁。旧武家屋敷町。古い洋館と新しいマンションが混在する、静かで品のいい住宅街。
マツモトヒナとのカフェトークは名古屋駅の近くのカフェだった。今日は白壁の一軒家。カワセトモコの実家のリビング。窓の外に庭の木が見える。広い。品がいい。家具もいい。紅茶のカップもいい。全部いい。
——相変わらずこの家、不動産広告にそのまま載りそうだ。
「お久しぶり、ソノダさん。上がって」
カワセトモコ。元高校教諭。進路指導に詳しい。高校パンフレットのポエムを一緒に分析した仲間。私とは正反対の人だ。品がある。落ち着いている。白壁の一軒家に住んでいて、庭に木があって、リビングが広い。
私は家賃6万のワンルームに住んでいる。比較してはいけない。
ソノダ「相変わらずいい家だなあ。このリビング、チラシに載せたらキャッチコピーいらないよ。写真だけで売れる」
カワセ「やめてよ。来るたびにポエム分析しないで」
紅茶を入れてくれた。ウェッジウッドのカップ。当然だ。カワセさんの家にマグカップは似合わない。
紅茶を飲みながら、最近の話をした。
ソノダ「最近ね、16歳の高校生とLINEでやりとりしてるの」
カワセの目が鋭くなった。ウェッジウッドのカップを静かに置いた。
カワセ「……高校生? 男の子?」
ソノダ「うん、カウンセリングで来た子で。タケウチくんっていう。バスケ部の補欠。名古屋の子」
カワセ「まさか、あの100本のエッセイの話を高校生にしてるの?」
ソノダ「ちょっとだけ……LINEで質問が来ると、つい返しちゃって」
カワセ「まったく、高校生相手にポエムがどうとかマジレスしてんじゃないわよ」
……シュンとした。私はシュンとした。36歳がシュンとした。
カワセ「あのね、16歳の子に必要なのは分析じゃなくて体験なの。LINEのグループ名が嘘だって教えてどうするの。自分で気づくまで待ちなさいよ」
ソノダ「……でもあの子、自分で気づいてたよ。グループ名は嘘じゃなくて願いだって、自分で書いてた。『知ってるのに、やる』って」
カワセ「(少し間)……じゃあ、あなたのLINEは余計だったんじゃない?」
私は黙った。
カワセさんは厳しいが正しい。15年間、高校生を見てきた人だ。「教えすぎない」のがプロ。高校パンフの記事でも、カワセさんは「パンフの読み方を教えなきゃいけない」と言った。読み方を。答えを、じゃなくて。
カワセ「……で、その子、どんな子?」
気になってるじゃん。
タケウチソウタの話をした。バスケ部補欠。偏差値50台。名古屋弁まじりの文章を書く。名古屋めしのエッセイを書いた子。「名古屋最高!」とは言わない。「まあいいかの街」。盛らない。
カワセ「……いい子じゃない。盛らないのは強さよ」
ソノダ「でしょ?」
カワセ「でもバスケ部補欠で成績中の中って、進路どうすんのよ。その子、高校パンフに『一人ひとりが輝く』って書いてある学校に通ってるでしょ」
ソノダ「(笑)たぶんね」
カワセ「偏差値50台ってことは、あの表の真ん中。パンフに『文武両道』って書いてあるゾーン。文武両道って、つまり特に際立ったものがないってことよ。あの子、何か武器ある?」
ソノダ「文章がうまいよ。書く仕事に向いてると思う。コピーライターとか」
カワセ「まず大学に行けるのかが問題でしょ」
ソノダ「私みたいにコピーライターになったらいいのに」
カワセ「あなたみたいになったら36歳独身でマンションポエム100本書く人生になるけど」
ソノダ「ひどい」
カワセ「事実でしょ」
二人で笑った。カワセさんは品があるのに容赦がない。上品に刺してくる。
二人で勝手にタケウチソウタの将来を心配する。会ったこともない16歳の男の子の進路を、36歳の独身と30代のお嬢様が白壁のリビングで真剣に議論している。滑稽だが、わりと楽しかった。
話がカワセさんの日常に移った。
カワセ「うちの子がね、保育園で『将来の夢はYouTuber』って書いたの」
ソノダ「かわいいじゃん」
カワセ「かわいいけどね。先生の反応が面白かった。『すてきな夢ですね!』って。満面の笑み。でもあの笑顔、ちょっと硬かった」
ソノダ「(笑)」
カワセ「『すてきな夢ですね』って、高校パンフの『一人ひとりが輝く』と同じよね。何にでも使える万能フレーズ。YouTuberでも宇宙飛行士でもプリキュアでも、全部『すてきな夢ですね』で返せる。先生が本当にそう思ってるかは——まあ、聞かない」
ソノダ「カワセさん、あなたもポエム分析してるじゃん」
カワセ「うるさい。職業病よ」
ソノダ「マツモトさんは保育園の連絡帳のポエマイゼーションを発見してたけど、保育園の先生のリアクションもポエムなんだね。『すてきな夢ですね』は情報量ゼロの変装」
カワセ「でもあの先生、悪気はないのよ。5歳の子に『YouTuberは厳しいよ』って言えないでしょ。やさしい変装。マツモトさんの言う『やさしい消去』と同じね」
カワセ「旦那がね、最近全然話さないのよ。帰ってきて『疲れた』。ご飯出して、『ありがと』。風呂入って、『おやすみ』」
ソノダ「マツモトさんと同じこと言ってる。あの人も旦那さんが3語だって嘆いてた。『疲れた』『ありがと』『おやすみ』」
カワセ「あの記事読んだわ。うちもまったく同じ。でもうちの場合、旦那は昔からこう。結婚前からこう。変わってない」
ソノダ「変わってない?」
カワセ「全然前と変わっていない気がする」
カワセさんは庭のほうを見た。紅茶のカップを両手で包んでいた。
カワセ「結婚して、子どもができて、白壁の家に住んで。外から見たら順調でしょ。でも自分の中では何も変わっていない気がするの。高校の進路指導をしていた頃の自分と、今の自分と、何が違うのか。毎日同じことの繰り返し。保育園の送り迎え、ご飯、洗濯、旦那の『疲れた』。送り迎え、ご飯、洗濯、『疲れた』。繰り返し」
ソノダ「……」
白壁の一軒家。ウェッジウッドの紅茶カップ。庭の木。不動産広告にそのまま載りそうな暮らし。でもその中にいる人は「何も変わっていない」と言う。チラシの写真は一番いい瞬間を切り取る。でも暮らしは、一番いい瞬間ではない日の繰り返しだ。
ソノダ「……変わってないって、悪いことなの?」
カワセ「わからない。ただ、同じ毎日を繰り返してるだけな気がするの」
ソノダ「それ、タケウチくんのLINEグループの話と逆じゃない?」
カワセ「逆?」
ソノダ「あの子は『テンションが冷凍保存される』って言ってた。グループ名だけキラキラして、中身が空になる。名前は『3年2組最強』なのに、誰も発言しなくなる。でもカワセさんの日常は逆だよ。名前は地味。キャッチコピーもない。『毎日が輝く白壁ライフ』なんて誰も言ってない。でも中身はずっと続いてる」
カワセ「……」
ソノダ「空っぽのキラキラより、地味な持続のほうがすごい。LINEグループの『永遠の仲間たち』は1ヶ月で死んだ。カワセさんの日常は死んでない。同じ毎日だって言うけど、それって毎日ちゃんと続いてるってことでしょ」
カワセ「……あなた、たまにいいこと言うわね」
ソノダ「たまにね」
カワセさんが少し笑った。紅茶を飲んだ。庭の木を見た。春の庭。まだ少し寒い。
カワセ「終わりなき日常って、言い方を変えれば終わらない日常なのよね。終わらないって、ある意味すごいことかもしれない」
ソノダ「タケウチくんのグループ名は終わった。『ウェーイ!!!』は2日で死んだ。でもカワセさんの『送り迎え、ご飯、洗濯』は終わらない。名前をつけなくても続いてる」
カワセ「名前をつけたら死ぬのかもね。『輝くママライフ』とか名前をつけた瞬間に、冷凍保存されちゃうのかも」
ソノダ「それ、すごくいい分析だよ」
カワセ「分析じゃないわよ。ただの愚痴」
名前をつけると冷凍保存される。だから名前のない日常は、冷凍されない。
ぬるくて、地味で、同じことの繰り返し。でも生きている。
カワセさんは変わっていないと言う。でも高校パンフを一緒に分析した頃より、言葉が柔らかくなった気がする。あの頃はもっと鋭かった。もっと切るように喋っていた。今は鋭さの中にやわらかさがある。たぶん変わっている。子どもの『すてきな夢ですね』を笑いながらも、先生を責めない目になっている。本人が気づいていないだけで。
カワセさんの家を出た。白壁の街を歩く。
古い洋館と新しいマンションが交互に並ぶ不思議な街。大正時代の門構えの隣に、ガラス張りのエントランス。歴史と新築が混在している。どちらも品がある。白壁という街自体がポエムを必要としていない。名前だけで成立している。偏差値70台の高校がパンフにポエムを書かないのと同じだ。白壁は、白壁というだけでいい。
マンションの郵便受けにチラシが入っていた。
「白壁の歴史が、あなたの暮らしを包む」
笑った。白壁にポエムを書く人がいる。白壁はポエムを必要としていないのに。まあ、不動産屋の仕事だから仕方ない。
歩きながら、タケウチくんにLINEした。
ソノダ「今日、カワセさんに怒られた。高校生相手にマジレスするなって」
しばらくして返信が来た。
タケウチ「マジレスって何すか」
……16歳はマジレスを知らない。そうか。そうだよね。
ソノダ「本気で返事するってこと。冗談とか軽い感じじゃなくて、ちゃんと向き合って返すこと」
タケウチ「ソノダさんがマジレスしてくれるの、俺は好きっすけど」
スマホをしまった。白壁の坂を下る。
何も解決していない。カワセさんの「終わりなき日常」は続くし、タケウチくんの進路は決まっていないし、私は相変わらず36歳独身でポエムを書いている。カフェトークのときと同じだ。何も解決しない。
でも少し軽くなった。
カワセさんは「終わらない日常」と言い換えた。終わらないってすごいことだ。LINEグループは死ぬ。キャッチコピーは古くなる。マンションの名前は建て替えで消える。でも「送り迎え、ご飯、洗濯」は続く。名前がないから。
キラキラした名前は冷凍保存されて、やがて解凍されて、消える。
名前のない日常は、冷凍されないから、消えない。
白壁の坂道を下りながら、
名前のない午後のことを思う。
何も解決しない午後だった。でも終わらない。
それだけで、たぶん十分だ。
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