「気にしないで」の、二方向
アヤのことばのメモ #5——アヤのシリーズ番外編

小川アヤ、高校二年、一組。水曜の放課後、駅近くの小さなカフェ。窓ぎわの二人がけの席に、私はひとりで座っていた。カウンターの上の黒板に、白いチョークで「本日のシフォン・紅茶」と書いてあった。

運ばれてきた皿

注文したのは、紅茶のシフォンケーキと、アールグレイ。レジで前払いをして、レシートに書かれた番号の札を、テーブルの端に立てておいた。札の数字は十二で、紙の角が、少し折れていた。

店員さんは、たぶん大学生で、エプロンの紐を腰のうしろで二回結んでいた。お盆を持って、私の席のところに来たとき、お盆の上には、シフォンケーキの皿と、紅茶のカップと、もうひとつ、頼んでいない小さなクッキーの皿が、載っていた。

店員さんは、シフォンと紅茶を私の前に置いてから、クッキーの皿のところで、手を止めた。お盆の上に視線を落として、それから、レシートの控えを、もう一度、確認した。

「あ、すみません、こちら、別のお席のでした」と店員さんは言った。声は、低くはなくて、語尾が、ちょっと、はやかった。クッキーの皿を、お盆に戻して、もう一度、私のほうに、軽く、頭を下げた。

「気にしないでください」と私は言った。

店員さんは「失礼しました」と、もう一回、言って、お盆を持って、奥のテーブルのほうに、歩いていった。

五音の向き

シフォンケーキにフォークを入れた。生地は、空気をたくさん含んでいて、フォークの先が、ふっと、沈んだ。沈んだあと、軽い、紅茶の香りが、断面のあたりから、立った。

食べながら、私は、さっき自分が言った「気にしないでください」の、五音と三音のことを、頭のはじっこで、なぞっていた。

あの五音は、店員さんに向けて、出した。店員さんは、頼んでいないクッキーの皿を、私の前に、持ってきかけた。持ってきかけて、自分で気がついて、止めた。止めたところに、店員さんの、ちいさな、申し訳なさが、残った。残った申し訳なさを、店員さんは、お盆と一緒に、奥に運んでいくところだった。私が「気にしないでください」と言ったのは、その申し訳なさを、奥のテーブルまで、運ばないでいい、と、知らせるためだった。

つまり、五音は、店員さんに向かって、出ていた。向かって、いた、はずだった。

けれど、フォークを二口めに動かしながら、私は、五音のもう一つの向きにも、気がつき始めていた。

もう一つの向きは、店員さんではなくて、私のほうに、向いていた。私は、頼んでいないクッキーの皿が、自分の前に来かけたことに、ほんの一瞬、戸惑っていた。戸惑った、というのは、嫌な気持ちではない。ただ、お盆の上の皿の数が、私の数えていた数と合わなかった、という、ちいさなずれだった。そのずれを、私は、私の中で、自分で、片付けた。片付けた、ということを、店員さんに、報告するように、私は「気にしないでください」と言った。

つまり、五音は、片付け終わった、という、私の側の、しまい方の合図でもあった。

うしろの席

シフォンの三口めを口に入れたとき、うしろのほうで、椅子の脚が、床のタイルに当たる音がした。続けて、男の人の声で、「あ、すみません」と聞こえた。

振り返ると、隣のテーブルから立ち上がろうとした男の人の鞄が、私の椅子の背もたれに、ぶつかったところだった。鞄は、革の、四角いビジネス鞄で、角が、私の背もたれに、ちょっと、押し当たっていた。男の人は、鞄を手前に引き戻して、もう一度「すみません」と言った。年は、たぶん、三十代の半ばくらい。スーツの肩のところに、小さく、糸くずが、ついていた。

「気にしないでください」と私は、また、言った。

男の人は、軽く、会釈をして、レジのほうに歩いていった。レジで、店員さんに、何か短く言って、お会計を済ませて、店を出ていった。ドアのベルが、二回、鳴った。一回目は開けたとき、二回目は閉まったとき。

私は、自分の椅子の背もたれに、手をやった。鞄の角が当たったところは、ふつうの背もたれの感触で、特に、変わってはいなかった。当たった瞬間に、私の背中の左寄りの肩甲骨のあたりに、軽い振動が伝わったのは、たしかだった。けれど、振動は、もう、消えていた。消えたあとの背もたれを、私は、確かめるように、二回、軽く、手のひらで、撫でた。

同じ五音、違う向き

店員さんに言った「気にしないでください」と、男の人に言った「気にしないでください」は、同じ五音と三音だった。同じ音だったけれど、私の中で、向きが、ちょっと違っていた。

店員さんのときは、店員さんの申し訳なさが、まだ、お盆の上に乗っていた。私は、その申し訳なさを、お盆から、おろさなくていい、と、知らせた。知らせる、というのは、店員さんを、軽くする、ということだった。

男の人のときは、私の背もたれに、振動が、一瞬、残っていた。私は、その振動が、もう、消えた、ということを、私自身で確認しながら、男の人にも、確認の音として、出した。男の人を軽くするためというより、私のほうの、ちいさな振動が、もう、私の中で、片付いた、と、報告していた。

店員さんのほうの五音は、相手に向かって、ふっと、出ていた。男の人のほうの五音は、私のほうから、ふっと、出ていって、私のほうへ、戻ってきていた。戻ってくる、ということは、自分に向かう五音もある、ということだった。

同じ音が、二方向に、向いていた。二方向に向くことが、できる音だった。できるけれど、ふだん、私は、その二方向のことを、考えずに、五音を、出している。考えずに出して、考えずに、相手から受け取られて、考えずに、流れていく。流れていくのが、ふつうだった。ふつうのなかに、ときどき、こんなふうに、二方向が、立ち上がる。立ち上がった瞬間に、私は、フォークを、止めていた。

紅茶の最後の一口

フォークを動かして、シフォンの最後のひとかけを、口に入れた。紅茶は、もう、ぬるくなっていた。ぬるい紅茶を、半分だけ、ゆっくり飲んだ。残り半分は、カップの底に、薄い色で、残った。

店員さんは、奥のテーブルに、クッキーの皿を、無事に、届けたようだった。奥のテーブルから、ちいさく、ありがとう、という女の人の声が、聞こえた。聞こえたあと、店員さんは、カウンターの中に、戻っていった。エプロンの紐の結び目が、戻り際に、ちらっと、見えた。二回結びは、きちんと、整っていた。

店を出るとき、私は、レジの店員さんに、軽く、会釈をした。店員さんも、軽く、会釈を返してくれた。会釈には、もう、さっきの申し訳なさは、乗っていなかった。乗っていない、ということを、私は、見て、確かめた。確かめてから、ドアを開けた。ドアのベルが、私のときも、二回、鳴った。

外は、夕方の少し前で、街路樹の葉のあいだから、まだ、明るい光が落ちていた。歩道に出て、駅のほうに歩き始めながら、私は、二回出した「気にしないでください」のことを、もう一度、ちらっと、思い出した。思い出して、それから、紅茶のカップの底の、薄い色のことに、考えが移った。次に頼むときは、紅茶ではなくて、別の何かにしようか、と思った。シフォンは、また、紅茶のがいい、と思った。

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本作はアヤのシリーズ番外編「アヤのことばのメモ」第五作。「気にしないで」という五音には、相手の申し訳なさを軽くする向きと、自分のなかのちいさなずれが片付いた、と相手に知らせる向きの、二方向の動詞性がある。義務論者のアヤは、駅近くのカフェで、注文外のクッキーの皿を持ってきかけた店員さんに「気にしないでください」と言い、続けて、鞄が椅子の背もたれに当たった見知らぬ男の人にも、同じ五音を言う。同じ音だが、前者は相手に向かう五音、後者は自分から出て自分に戻ってくる五音だった。ミユ、母、鈴木先生、改札、玄関、自室、英訳ペアを、すべて使わない。「削れる/薄く置く」の量化空間比喩も、未着地形の閉じも、使わない。代わりに、シフォンケーキ、お盆、椅子の背もたれ、ドアのベル二回、紅茶のぬるさ、エプロンの二回結び、を、観察の手がかりとして置く。結語は、店を出て、二回出した五音をちらっと思い出してから、次のメニューのことに考えが移る、という、日常の動作の続きで閉じる。

このページの記事はAI(Claude)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。