東、高校二年、五組。火曜の部活が早めに終わった。バレー部の一年生がコートでまだボール拾いをしていて、二年と三年の何人かはストレッチを続けていた。わたしは荷物をまとめて、体育館の出口で振り返って言った。「お先に失礼します」。
三年の先輩が「おつかれー」と返した。一年生の何人かが小さく頭を下げた。それでわたしは体育館を出た。
渡り廊下はちょうど西日が射していた。屋根の影が床に斜めに落ちていた。歩きながら、自分が言ったばかりの八音を、頭の中でもう一度なぞった。
お、さ、き、に、し、つ、れ、い、し、ま、す。
八音ではなくて、十一音だった。数えると合わない。なぜか八音だと思っていた。
誰に向かって言ったのだったか、と思った。
振り返って言ったとき、視線はどこにも合っていなかった。三年の先輩の方を見たわけではなかった。一年生の方を見たわけでもなかった。コートの方を、なんとなく見た。コートの方というのは、誰でもない、ということだった。
「おつかれー」と返したのは三年の先輩だったから、結果的に先輩に向かったように聞こえた。けれど、わたしの側では、先輩に向けたつもりはなかった。コート全体に向けて、置いてきた。
置いてきた、というのが、たぶん近かった。
ハッケンサックの放課後を思い出してみた。バスケのクラブが終わって、誰かが先に帰るとき、ロッカールームで「See you tomorrow」とか「Bye」と言って出ていく。あれは、誰に向けて言っていたのだったか。
たぶん、ハンナにだった。あるいは、その日いちばん近くにいた誰かにだった。視線はちゃんとそこに向いていた。「Bye」と言いながら、相手の目を見て、もう一度手を振って、それから扉に向かう。一対一で渡していた。
体育館の出口で振り返ったとき、わたしは誰の目も見なかった。
先輩の「おつかれー」は、たぶん同じ温度だった。コートの方からの返事で、誰の目も見ないまま、声だけが渡り廊下のほうに飛んできた。それでよかった。むしろ、そのほうが楽だった。
もし先輩がわたしの目をまっすぐ見て「東、おつかれ」と返してきたら、わたしは少したじろいだだろう。逆に、先輩のほうも、わたしが先輩の目を見て「先輩、お先に失礼します」と言っていたら、たじろいだはずだ。
誰の目も見ないことのなかに、先輩とわたしの、合意があった。合意というほどのものではなかったかもしれない。けれど、何かが、そこで揃っていた。
渡り廊下の真ん中まで来て、コートのほうから一年生の声が聞こえた。「もう一本やる?」「やろう」。ボールを拾い終えて、もう一本サーブ練習をやる、ということらしかった。
わたしが先に帰った後も、コートでは時間が続いていた。続いていることが、こちらまで聞こえてきた。
先輩がわたしに「おつかれー」と返したのは、たぶん、わたしが抜けたあとも続く時間の側から、抜ける側に向かって、声をひとつ渡した、ということだった。コート側にとって、わたしはもう一年生たちと同じ時間にはいない。けれど、抜けるその瞬間だけ、声がひとつ届く。
「お先に失礼します」は、たぶん、その逆だった。続く時間の側に、置いていく声。
家に帰って、お風呂に入った。あがって、リビングに戻るとき、母はソファでドラマを見ていた。
「お先に」とわたしは言った。
母は画面のほうを向いたまま「はあい」と言った。
母も、わたしの目を見なかった。わたしも、母の目を見なかった。声だけが、リビングを横切った。
体育館の出口とよく似ていた。誰に、というのが、あいまいなまま、声が場所を横切る。
明日も部活はある。わたしは明日も「お先に失礼します」と言うかもしれないし、言わないかもしれない。明日は最後まで残るほうかもしれない。そのときは、誰かが言う「お先に失礼します」を、コート側で受け取る。
受け取るときも、たぶん、その人の目を見ない。コートのほうからボールを追いながら、声だけ「おつかれー」と返す。それで、その人とわたしの時間が、一瞬だけ離れて、すぐに離れたまま固定される。
英語に訳せるかどうかは、今夜は考えないでおいた。ハッケンサックでは「Bye」を相手の目を見て言っていた。日本では誰の目も見ずに「お先に」と言う。たぶんそれだけのことだった。
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本作はv1『お先に、を、誰に』の書き直し版(v2)。v1で「英訳の五枚カード」「譲る/抜ける二項図式」「四場面の並列」「『共有のほどけ方の作法』というキメ語」が schematic だと批判して、v2では場面を体育館の出口の一回に絞り、誰に向かって言ったのか、誰の目を見たか/見なかったか、という一点だけを観察した。英語の比較は「ハッケンサックでは相手の目を見ていた」の一行に圧縮。結びも結論を出さずに、明日の側に開いたまま閉じる。