東、高校二年、五組。四月のはじめのクラス替えのあと、最初の朝。隣の席になった子が、軽く頭を下げた。「よろしく」。わたしも頭を下げて返した。「よろしく」。
それでお互いの自己紹介は半分くらい終わった気がした。
頭の中で、ふっと、別の声が立ち上がった。「よろしく」って、英語でなんて言うんだろう。
これまでのメモのなかで、何度か似たような問いを置いてきた。「お疲れ」「すみません」「もったいない」「お互い様」「なんとなく」「お先に」。どれも英語にひと言で訳せなくて、レイヤーが切れる、というところに着地した。「よろしく」も、たぶん同じ仲間だ。
けれど、「よろしく」には、ほかの言葉にはなかった、ひとつの特徴がある気がした。最初に思いついたのは「Nice to meet you」。これは初対面の挨拶。けれど、よく考えると、英語の「Nice to meet you」は、いま会えた、という現在の瞬間に向けた言葉だった。
別れぎわには「It was nice meeting you」になる。過去形。出会いの時間は、もう、過ぎたものとして扱われる。
英語の挨拶は、現在か、過去のほうを向いている。「よろしく」は、そのどちらでもない、と気づいた。
ハッケンサックの小学校に転校した最初の日のことを思い出した。小学一年の三学期。母に手を引かれて教室の前まで来て、ドアを開けて、ミセス・ロドリゲスの前に立った。先生がクラスメイトに紹介した。「This is Azuma. She just moved here from Japan」。ジェイコブとハンナと、何人かが順番に来て、「Hi, Azuma. Nice to meet you」と握手した。わたしも「Nice to meet you」と答えた。
あの握手で、出会いの瞬間は、いったん閉じられた。「Nice to meet you」は、その瞬間の挨拶として、ちゃんと機能していた。
けれど、いま思い返すと、あの握手のあとに、日本の自己紹介でいう「よろしくお願いします」のレイヤーは、抜けていた気がする。これから一年、同じ教室で過ごす、その関係への、先回りの挨拶。それを言葉にする習慣が、たぶん、あの教室には薄かった。
ジェイコブは握手のあと、すぐに「Do you like soccer?」と聞いてきた。たぶんあれが、彼なりの「これから一緒にやろう」のサインだったのかもしれない。けれど、それは未来への挨拶として言葉になっていたのではなく、具体的な質問の形で現れていた。
言葉のレイヤーがひとつ、抜けていた。抜けていたかわりに、別の形で、関係の始まりは進んでいた。
「よろしく」を英訳しようとすると、場面ごとに別々の英語が立ち上がる、というのが、これまでのメモと同じパターンだった。
初対面の自己紹介の「よろしく」は、「Nice to meet you」。仕事を頼むときの「これ、よろしく」は、「Please take care of it」。誰かを誰かに託すときの「うちの子、よろしくお願いします」は、「Please look after her」。手紙の結びの「どうぞよろしく」は、「Regards」「Best regards」。先回りのお礼の「あらかじめ、よろしく」は、「Thanks in advance」。これから一緒に働く相手への「よろしくお願いします」は、「Looking forward to working with you」。
それぞれ、ひとつのレイヤーは拾える。けれど、日本語の「よろしく」が、これらのレイヤーをまとめてひと言に折り畳んでいる、その重なり方は、英訳には入らない。
これは、これまでのメモと同じ構造だった。複数のレイヤーが、五音か四音のあいだに薄く折り重なっていて、英訳すると、レイヤーごとに別の単語に分かれてしまう。
けれど「よろしく」には、もうひとつ、別の特徴があった。
「お疲れ」は、相手の一日への、軽いねぎらい。一日が終わった、というところに視線が向いている。過去のほう。「すみません」は、いまの自分の振る舞いへのお詫び・お願い・お礼。いまのほう。「もったいない」は、ものや時間が無駄に消えそうな、その瞬間への引き止め。「お互い様」は、これまでの貸し借りのバランス。「なんとなく」は、いまの応答。「お先に」は、いま帰る、という現在の行為。
「よろしく」は、たぶん、これから始まる関係のほうに、視線が向いていた。
「これから始まる関係を、お願いします」。まだ起きていないことに対して、軽く手を差し伸べる。出会ったその瞬間ではなく、出会ったあとに続いていく時間のほうへ、ことばが向かっている。
「Nice to meet you」が現在形で、「It was nice meeting you」が過去形だとすると、「よろしく」は未来形に近かった。
厳密にいうと、「よろしく」自体は活用形としては命令形か終止形に近い。けれど、機能としては、未来の関係に向かっている。これから一緒に過ごす時間を、いまのうちに、軽く許可してもらう。そういう挨拶。
英語にも、未来へ向かう挨拶のかけらはある。「Looking forward to working with you」は未来。「Thanks in advance」も未来。けれど、これらはひとつの場面に紐づいた、長めの慣用句で、ふっと差し出せる二音の挨拶ではなかった。
家に帰る途中、明日のお弁当のことを思い出した。家に着いてから、台所で米を研いでいた母に「明日のお弁当、よろしく」と言った。母は手を止めずに「はいはい」と答えた。
このときの「よろしく」も、明日のほう、未来のほうへ向かっていた。「明日のお弁当をつくる」という、まだ起きていない仕事に対して、先回りのお願いと、先回りのお礼が、四音のあいだに混ざっていた。
英訳すると「Could you make my lunch tomorrow?」「Thanks in advance for tomorrow's lunch」のように、お願いとお礼を別々の文に分けないと、たぶん同じ温度にならない。
母の「はいはい」も、日本語のなかで機能していた。「分かった」と「いつものことね」が混ざった、軽い受領。「Sure」だけだと、その「いつものこと」のレイヤーが、薄くなる。
家庭のなかの「よろしく」は、たぶん、家のなかでくり返される未来形のかたまりだった。
金曜の放課後、校門でカナと別れるとき、カナがふっと言った。「またね、よろしく」。
「またね、よろしく」の「よろしく」は、明日また会うときの、これからの関係への、薄い差し伸べだった。何を、よろしく、なのかは、お互いに細かく決めていない。来週も、月曜もまた一緒にお弁当を食べたり、購買に行ったり、三限の倫理を聞いたりするだろう、そういう緩い続きを、二音半で先回りに認める。
英訳しようとすると、たぶん「See you. Take care」あたり。けれど「Take care」は、相手の身を気遣う方向。「またね、よろしく」は、相手の身というより、お互いの関係そのものに向けて、軽く頭を下げている感じ。微妙に違う。
「Looking forward to next week」だと、ちょっと重い。来週を待ちわびている、というほどの強さは、カナの「またね、よろしく」のなかには、たぶんなかった。もう少し、ふんわりしたもの。
ふんわりした未来への、軽い差し伸べ。これが「よろしく」の機能のひとつだった。
そういえば、と思い出した。先月、カナがLINEで、別の中学のときの友達のミホをグループに招待してきた。グループのなかで、カナが書いた。「ミホ、東さん。東さん、ミホ。よろしくね」。
あの「よろしくね」は、二人の未来の関係に向けた、橋のような言葉だった。カナは自分の友達同士を引き合わせて、これから二人がどんな関係になっていくか、それを未来のほうに置いて、軽く頭を下げる。「Please get along」だと押しつけがましい。「Hope you two get to know each other」だと長い。「よろしくね」は、その橋の機能を、四音半で済ませていた。
橋を渡る役は、カナでもなく、わたしでもミホでもなく、「よろしく」というその言葉そのものだった。
「よろしく」は、依頼でもあり、挨拶でもあり、先回りのお礼でもあった。
依頼だけだと、固い。「これから始まる関係を、お願いします」と全部言うと、丁寧すぎる。挨拶だけだと、薄い。「Hi」だけだと、関係の続きへの先回りが、抜ける。お礼だけだと、まだ何もしてもらっていないのに、変。
三つを混ぜて、ひと言に折り畳む。それが「よろしく」の四音だった。「お願いします」をつけると、もう少し丁寧になる。けれど核は同じで、未来の関係に、軽く手を差し伸べる、という機能。
これまでのメモを書きながら、ぼんやり思っていたことが、ここで、もう少しはっきりした。日本語のなかで、英語にひと言で訳せない言葉たちは、たぶん、それぞれ別のレイヤーの折り畳み方をしている。「お疲れ」は過去への折り畳み。「すみません」は現在の状況への折り畳み。「もったいない」は瞬間への折り畳み。「なんとなく」は応答の折り畳み。「お先に」は現在の行為への折り畳み。「よろしく」は未来への折り畳み。
折り畳む方向が違う。それぞれの言葉が、それぞれの方向に向かって、ことばを薄く重ねている。
「よろしく」は、英訳するとレイヤーが切れる。「Nice to meet you」「Please take care of it」「Please look after her」「Regards」「Thanks in advance」「Looking forward to working with you」。それぞれを別々の英語が、別々に拾う。日本語のなかでは、四音のあいだに、これらが薄く折り重なって、未来へ向かう挨拶になる。
英語の挨拶が現在と過去を向いていることは、英語が劣っているということではなかった。英語は英語の温度で、いまここの出会いと、過ぎていった出会いに、ことばを置いている。日本語は日本語の温度で、まだ起きていない関係のほうに、ことばを差し伸べている。両方とも、それぞれのやり方で、人と人のあいだを、機能させていた。
この一年、頭の中で何度か数えてきた言葉たち——お疲れ、すみません、もったいない、お互い様、なんとなく、お先に、よろしく——は、英訳するとどれもレイヤーが切れて、別々の英語に分かれる。けれど、日本語のなかで、それぞれの方向に向かって、ことばを折り畳んで、機能している。機能している、ということが、たぶん、いちばん大事なところだった。
訳せないものは、訳せないままで、隣に、置いておく。そして「よろしく」だけは、隣に置いて、未来のほうへ、すこしだけ向けておく。
明日もまた、わたしはカナに「またね、よろしく」と言う。母には「明日のお弁当、よろしく」と言う。新学期のはじめに新しいクラスメイトに会ったら「よろしく」と頭を下げる。四音が、未来のほうへ、薄く差し伸べられる。
差し伸べられたものが、相手のところに届いて、向こうからも「よろしく」が返ってくる。そうやって、まだ始まっていない関係が、ことばのなかで、ふっと、始まっていく。
始まっていく、ということが、たぶん、いちばん大事だった。
東のことばのメモ・完
→ 第二稿:よろしく、の、未来形(v2・書き直し)
→ 第一稿への辛口レビュー
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← 関連:すみません、の、いくつか(東のことばのメモ #2)
← 関連:もったいない、を、訳しかけて(東のことばのメモ #3)
← 関連:お互い様、の、温度(東のことばのメモ #4)
← 関連:なんとなく、の、輪郭(東のことばのメモ #5)
← 関連:隣に、置いて、答える(東のシリーズ最終話)
← 関連:東のシリーズの種明かし
← シリーズ #1:日本では
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本作は東のシリーズ番外編「ことばのメモ」シリーズ第7話・最終話。「よろしく」を英語に訳そうとすると、「Nice to meet you」「Please take care of it」「Please look after her」「Regards」「Thanks in advance」「Looking forward to working with you」と、場面ごとに別の英語が、別のレイヤーを拾う。英語の挨拶は現在形か過去形(Nice to meet you / It was nice meeting you)。日本語の「よろしく」は、まだ起きていない関係のほうに視線が向く、未来形のことばだった。お弁当を頼む母への「よろしく」、校門でカナと別れる「またね、よろしく」、LINEで誰かを誰かに紹介する「よろしくね」、ハッケンサック転校初日の握手では抜けていたレイヤー。「お疲れ」は過去への折り畳み、「すみません」は現在への折り畳み、「もったいない」「なんとなく」「お先に」もそれぞれの方向。「よろしく」は未来への折り畳み。訳せないものは、訳せないままで、隣に置いて、未来のほうへ、すこしだけ向けておく。(本作は第一稿。批判ページと第二稿あり。)