東、高校二年、五組。土曜の昼前、お向かいのおばさんが来た。お皿をラップで包んでいて、そのラップの内側に、薄く水滴がついていた。冷蔵庫から出してすぐ持ってきたのだと思う。
お皿の上に、いちじくが六つ並んでいた。皮の紫が深いもの、まだ赤みの強いもの、ひとつだけ、つるの切り口から白い乳が乾いて固まっているものがあった。葉の匂いが、皿の縁から、ふっと上がった。
「いちじく、たくさん採れたから」とおばさんは言った。「すみません、いつも、ありがとうございます」とわたしは答えた。母は出かけていた。
おばさんはお皿を渡して、それから少し笑って「お互い様だから」と言って、背中を見せて、戻っていった。
玄関にお皿を持ったまま、しばらく立っていた。お皿は冷たかった。皮の紫の濃いほうのいちじくに指を近づけると、表面にうぶ毛のような、こまかい粉のようなものがついていた。爪で触ると、すぐに取れる。
うちはおばさんに、最近、何かをした覚えがない。母がときどき、何かのお返しに、何かを持っていっているのは知っている。けれど、いちじく六つに対して、つりあう何かを、わたしの記憶のなかでは、思い出せない。
つりあっていない。それでも、おばさんは「お互い様」と言った。
「お互い様」を、英語にしようとしてみた。
We're even、と、頭のなかで一度言ってみた。それは、貸し借りなしの、清算の感じ。けれどおばさんの「お互い様」は、清算ではない。むしろ、清算を、しないことを、選んでいた。数を、数えていない。
もうひとつ、I owe you one、というのも頭をよぎった。これは逆向きで、こちらが借りている、という台帳の感じ。これも違う。おばさんは台帳をつけない人だった。
英訳はそこで止まった。お皿のラップを、指で押して、内側の水滴を、皿の縁に集めた。台所に運んだ。
月曜の三限、鈴木先生の倫理。先週休んだ友達がいて、その日のノートが、わたしの机にだけ取ってあった。授業中、隣のカナが、わたしのノートを横目で見ながら、何度か手を動かした。前の単元のところを、写し損ねていたらしい。
授業のあと、カナが「ノート見せてくれて、ありがとう」と言った。「お互い様」とわたしは答えた。言ってから、自分の口から出たことに、少し驚いた。
カナが「来週、わたしのも見ていいから」と笑った。「うん」とわたしは答えた。それで、その話は終わった。
カナとわたしは、たぶんこれからも、何度かノートを見せ合う。先月もそうだったし、先々月もそうだった。来週もそうかもしれない。来週ではないかもしれない。
「お互い様」と口から出たのは、その来週のことを、数えていなかったからだと思う。数えていない、ということを、相手にも、ふっと、渡せた気がした。
家に帰って、台所で、いちじくをひとつ、皮ごと半分に割った。中の赤いところに、たくさんの粒が詰まっていた。匙ですくって、口に入れた。
甘かった。皮の渋みも、すこし、混ざった。
おばさんは、これを六つくれた。母が帰ってきたら、おばさんが来たことを伝える。母はたぶん、来週か、再来週か、何かを、おばさんの家に持っていく。何かは、まだ、わからない。
夕方、母が帰ってきた。お皿の話をすると、母は「ああ、いちじくね」と笑って、「うちの庭、なんにも生らないから、申し訳ないよね」と言った。
申し訳ないよね、という言い方を、わたしは少し聞き返した。「お互い様、って、おっしゃってたよ」と伝えた。母は「そうそう、いつもそう言ってくれる」と答えて、夕食の支度を始めた。
その夜、机のうえに、お皿を返すために洗った皿が伏せてあった。明日、母がたぶんそれに何かを乗せて、おばさんの家に持っていく。
「お互い様」を英語にする話を、もう少し考えてみた。けれど、玄関でおばさんに言われたあの五音と、月曜の三限のあとカナに言ったあの五音と、母が「いつもそう言ってくれる」と言ったときの五音は、それぞれ少しずつ温度が違っていて、英語の一語に、まとめてしまう気には、もうなれなかった。
訳しかけて、やめる。
口のなかに、まだ、いちじくの甘さが、薄く残っていた。
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本作はv2(書き直し)。v1の「未来までを含む互酬性」「非対称を水平に戻す装置」という概念語を撤去し、5英訳の図式を2訳の試行(We're evenとI owe you one)に縮め、ハッケンサックの場面をカットした。代わりに、いちじく六つの粒・皮・つる・葉の匂い・お皿の冷たさといった具体を厚くし、結語は「隣に、置いておく」を使わず、いちじくの甘さで閉じた。「数えるのを、やめる」「訳しかけて、やめる」という身体に近い動詞で、互酬性の概念を言葉にせずに通過する。シリーズ#1の構造的反復を避ける、という方針の試行。