蓮見、高校二年、三組。金曜の三限のトロッコ問題から一日経った、土曜の朝。九時すぎ。本堂の準備は父と一緒に七時から始めていた。十時から三回忌の法要が一件入っている。二年前に亡くなった、檀家のおばあさんのお参りだった。
本堂の畳を拭いて、座布団を並べる。今日は遺族が四名、と父から聞いていた。御祖父さん、お嬢さんとそのご主人、お孫さん。座布団は念のため五枚出しておいた。
香炉に炭を入れて、灰を整える。蝋燭の芯を新しいものに替える。お花は母が朝のうちに檀家の花屋で求めてきて、本堂の脇の水屋で生けてくれていた。
父は法衣に着替えに住居の方へ戻った。僕は学生服の上に羽織を着る。お寺の長男としてこういう場に立ち会うときは、学生服でいい、と父は言う。法衣は副住職になってから、と。なってからの予定は、まだ立っていない。
本堂のいちばん奥、ご本尊の前に阿弥陀如来の像が立っている。子どもの頃から見ているお顔だが、毎週末、法要の朝に見直すと、毎回少し違う表情に見える。光の入り方や、僕の体調や、その日の心持ちで、見え方が変わる。仏像そのものは動いていないはずなのだが、見ている方が動いているということなのだろう。
十時の少し前に、ご遺族が四名、本堂に上がってきた。御祖父さんは七十前後、痩せていて背筋が伸びている。お嬢さんは四十代半ばくらい、お母さん似なのか色白で、目元が少し赤かった。お嬢さんのご主人は同年代で、控えめな表情。お孫さんは中学生に見えた。中学三年か、高校に上がったばかりかもしれない。
四人は順に座布団に座って、ご本尊に向かって軽くお辞儀をした。父が法衣で本堂に入ってきて、導師の席に着いた。僕は本堂の右奥、ご家族から少し離れた場所に座った。
読経が始まった。父の声は低く均一で、一定のリズムで進む。子どもの頃から聞いてきたお経で、僕も覚えているところは口の中で唱えた。
四人のご遺族の様子を、お経の合間にちらっと見た。御祖父さんは目を閉じて、両手を膝の上で軽く重ねていた。お嬢さんはお経本を開いて、文字を目で追っていた。ご主人は両手を合わせて、姿勢を正していた。お孫さんは少し背中を丸めて、手元のお経本を見ていたが、ときどき本堂の天井のあたりに視線が逸れていた。
同じおばあさんの三回忌に、四人が集まっている。けれど、四人それぞれが、おばあさんと別の関係を生きてきた。御祖父さんは五十年近い夫婦の関係。お嬢さんは四十年あまりの母娘の関係。ご主人は二十数年前に結婚してからの義理の母との関係。お孫さんは生まれてから十数年、おばあさんと過ごした記憶。四人の関係は、それぞれ別の長さで、別の温度を持っていた。
「二年前に亡くなった一人のおばあさん」と、まとめると、その四つの関係が見えなくなる。一人の死は一人分ではない。関係する人の数だけ、それぞれの形で、続いている。
読経が進んで、焼香の段になった。御祖父さんが最初に立ち上がって、香炉の前に進んだ。三度、お香をつまんで、香炉に落とした。お辞儀をして、座布団に戻った。
お嬢さんが続いた。お嬢さんは香炉の前で少し長く立ち止まっていた。お香をつまむ手が、わずかに震えていた。三度落とした。お辞儀をして、戻る前に、片手で目元をそっと押さえた。
ご主人が次に立った。短く済ませて、戻った。
最後にお孫さん。お孫さんは少しぎこちない手つきだった。お香をつまむ角度が、家族の他の三人と少し違っていた。けれど三度落とした。お辞儀をして、戻った。
四人の焼香の所作が、それぞれ違っていた。同じご本尊に、同じおばあさんに向けたお香だったけれど、所作が四つの形で残った。
父は読経を続けていた。蓮見は焼香の所作を順に見ていた。所作の違いの奥に、四つの関係の違いが、たぶん滲んでいた。
法要が終わって、ご遺族と父は本堂の脇の控え室に移った。母がお茶とお茶菓子を用意していた。僕はお茶を運ぶ手伝いに入った。
控え室は六畳の和室で、低い座卓を囲んで五人が座る。父、御祖父さん、お嬢さん、ご主人、お孫さん。僕はお茶をひとつずつ座卓に置いて、部屋の隅に下がった。
父は短い世間話から始めた。最近のお寺の修繕の話、桜が散る時期の話、お孫さんの学校のこと。お嬢さんが応えて、ご主人が頷いて、お孫さんが小さく返事をする。御祖父さんは黙って湯のみを両手で包んでいた。
「二年も経つんですね」と、お嬢さんがふと言った。
「ええ、二年です」と、父は答えた。
「あっという間でした。気がついたら三回忌で」
「あっという間だったような、長かったような」と、御祖父さんが続けた。御祖父さんの声は低くて、ゆっくりだった。
「お父さんは、長かったでしょう」とお嬢さん。
「うん、長いような気もする。短いような気もする。なんだか、二年というのが、まだ自分の中で形にならないんだよ」
「形にならない」と、父が繰り返した。
「うん。亡くなった日のことは、今朝のことのようにはっきり覚えている。けれど、二年経った、という感覚は、なかなか入ってこない。台所に立つと、まだ向こうから声が聞こえる気がする」
御祖父さんは湯のみを両手で包んだまま、ゆっくり話していた。お嬢さんは少しだけ下を向いた。
「私はね」と、お嬢さんが言った。「二年経って、ようやく、母のことを、笑って思い出せるようになった気がします」
「笑って?」と父。
「最初の半年くらいは、思い出すと、どうしても泣けてきて、家事も手につかない日がありました。一年経った頃から、思い出しても、悲しいけれど、笑える瞬間も出てきて。二年の今は、母の口癖や、よく作ってくれた料理のことを、家族と笑って話せるようになっています」
「一周忌のときは、まだそんな感じじゃなかったね」と、ご主人がぽつりと付け加えた。
「一周忌は、まだ重かった、ですね」
「うん、僕もそう思った」
お孫さんは黙ってお茶菓子の包みを指でいじっていた。お嬢さんは、お孫さんの方をちらっと見て、続けた。
「この子は、まだ中二だから、おばあちゃんの記憶が、だんだん薄くなっていくのが、母親としては少し寂しくて」
「覚えてるよ、おばあちゃんのこと」と、お孫さんが少し顔を上げた。
「覚えてるけど、最近、顔が、ちょっと、ぼんやりしてきた」
「それはそういうものよ」と、お嬢さん。
「写真は見るけど、写真の顔と、思い出してる顔が、なんか少しずれてる気がして、それが、自分でも、ちょっと、変な感じ」
「変な感じ」と、御祖父さんが繰り返した。「お祖父ちゃんは、お祖母ちゃんの顔は、いまもよく見えるよ。ただ、お前の言う通り、写真とは少し違うかもしれんな」
湯のみが空に近づいた頃、父はもう一度短いお話をして、お参りを締めた。御祖父さんは深くお辞儀をして、お嬢さんとご主人とお孫さんも続いた。
四人を山門まで送りに出る。父と母は山門の手前で見送り、僕は山門の外まで出てお見送りした。お嬢さんが「いつもありがとうございます」と、僕にも軽くお辞儀してくれた。
四人が駐車場の方へ歩いていくのを、山門の柱に手を添えて見ていた。
御祖父さんは少しゆっくり、お嬢さんは御祖父さんの腕を軽く支えるように、ご主人は二人の半歩後ろを、お孫さんはさらに半歩遅れて、それぞれの間隔で歩いていた。
同じ車に乗って、同じ家に帰っていく四人。けれど、それぞれの中に、別の形のおばあさんが、たぶん乗っていた。御祖父さんの中の、五十年連れ添ったおばあさん。お嬢さんの中の、笑って思い出せる母。ご主人の中の、義理の母。お孫さんの中の、写真と少しずれている顔。
四つの形が、四人それぞれの中で、別々に流れていた。
金曜の三限のトロッコ問題が頭の中にまた立ち上がった。「一人」を救うか、「五人」を救うか。問いはひとりの命を一個の単位として扱う。けれど、ひとりの命は、関係する人の数だけ別の形で生きていて、亡くなったあとも、関係する人それぞれの中で、別々の流れで続いている。
一人の命は、一人分ではないのかもしれない。亡くなった人は、生きている人それぞれの中に、別々の形で続いている。命の重さを数で比べる、という問いの立て方は、こうした「関係の中での続き方」を、たぶん見ていない。
四人の車が走り去ってから、本堂に戻った。父が法衣を脱いでいた。
「お疲れさん」と父が言った。
「お疲れさまでした」
「お孫さん、しっかりしたな。前回のお参りでは、もっと小さく見えたが」
「中二だそうです」
「成長するな、子どもは」
父はそう言って、本堂の片付けを始めた。僕も座布団を片付ける手伝いに入った。
「お父さん」と僕は言った。
「うん」
「亡くなった人は、家族の中で、それぞれ別の形で続いている、っていう感覚、お父さんも持ってますか」
父は座布団を重ねながら、少し考えた。
「持っているよ。お参りで毎週見ているからな。同じ人のお参りに、同じ家族が来ても、五年経つと、お参りの空気が変わる。十年経つと、また変わる。その家族の中で、亡くなった人の形が、少しずつ、別のものになっていく」
「その感覚って、仏教の教えの中に、はっきり書かれている言葉とか、ありますか」
「縁起、とか、無常、とかが近いだろうな。けれど、お参りで見ているのは、教えの言葉そのものというよりは、教えが指している実物の方だ。実物が先で、言葉が後」
「実物が先」
「うん。教えの言葉から始めると、家族の話が、教えの例に見えてしまう。お参りで見ていると、教えの方が、家族の流れのあとから、ふっと当てはまってくる」
父はそれだけ言って、座布団を奥の物入れに運んでいった。会話はそこで切れた。
夜、自分の部屋でベッドに寝そべって、天井を見ていた。土曜の午後にもう一件、四十九日の法要があったが、それは午前中の三回忌とは別の家のお参りで、別の家族の別の流れだった。
三回忌のご家族のことを、もう一度頭の中で並べてみた。御祖父さん、お嬢さん、ご主人、お孫さん。同じおばあさんを、四つの別の形で抱えている人たち。
「お祖父ちゃんは、お祖母ちゃんの顔は、いまもよく見えるよ」と、御祖父さんは言っていた。「写真の顔と、思い出してる顔が、なんか少しずれてる気がする」と、お孫さんは言っていた。同じおばあさんが、同じ家族の中で、ずれていた。ずれは、悪いことではない。それぞれの場所から見ているおばあさんが、それぞれの形で、続いている。
これは、金曜のトロッコ問題への、もうひとつの応えのかけらだった。
「一人を救う」「五人を救う」の問いは、ひとつの命をひとつの単位として扱う。けれど、お寺で見ている命は、ひとつの単位ではない。命は、関係する人の数だけ、別の形で生きていて、亡くなったあとも、関係する人それぞれの中で、別々の流れで続いている。
父が「実物が先で、言葉が後」と言った。教えの言葉は、後から当てはまってくる。お参りで見ている家族の流れの方が先で、無常や縁起という言葉は、その流れの輪郭をなぞる名前にすぎない。
金曜のトロッコ問題に応えるために、僕には、教えの言葉ではなく、実物の流れの方が要るのだろうと思う。教室で実物の流れを並べるのは難しい。けれど、実物の流れを抜いて教えの言葉だけで応えるのも、嘘になる。
来週の金曜まで、あと六日。お寺ではその間に、もう何件かのお参りがある。お参りで見る流れが、来週の三限の応えの、たぶん芯になる。
窓の外で、本堂の屋根の輪郭が薄く見えた。母屋の方から、母が父に何かを話している声がかすかに聞こえた。
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【蓮見のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第2話。土曜の午前中、二年前に亡くなった檀家のおばあさんの三回忌の法要。ご遺族は四名——御祖父さん、お嬢さん、お嬢さんのご主人、中学二年のお孫さん。蓮見は本堂の隅で読経を聞き、控え室でお茶を出す。同じおばあさんの「二年」が、四人それぞれの中で別の形になっていることに気づく。御祖父さんは「形にならない二年」、お嬢さんは「笑って思い出せる二年」、お孫さんは「写真と少しずれた顔」。一人の命は一人分ではない。関係する人の数だけ、別の形で続いている。父は「実物が先で、言葉が後」と語る。トロッコ問題の「一人」「五人」という単位の手前で、命の続き方を見る。