シリーズ第八作。視点が、再び、佐藤紗英子に戻る。Part 1 v2「アイコンは、まだ、押されていない」転職サイトのアプリが、ついに押された日からの、四週間。
佐藤紗英子。三十六歳。進学塾アスター、十二年目。
連休明けの月曜の朝、私は、スマホの転職サイトのアプリのアイコンを、ようやく、押した。先月、まだ押していなかった。今月、押した。
押すまで、半年、かかった。押したあとは、案外、早かった。
転職サイトに、いくつか登録した。書類選考が通った塾チェーンが、二社あった。一社は、駅から遠い。もう一社は、神奈川の、別の駅前。スタッフ三十人、女性十一人。所長は、六十代の女性。
面接で、所長は、ふっと、こう言った。「うちは、いろいろ、ありますけど。佐藤さんの十二年は、ちゃんと、生きると思いますよ」
「いろいろ」が何を指すかは、聞かなかった。たぶん、聞かなくても、わかった。
内定をもらった。返事を、二週間、保留した。二週間、考えた。考えた末、内定を、受けることにした。
火曜日の朝、所長のデスクに、行った。
「来月の末で、退職を、考えています」
所長は、PCの画面から、目を上げた。
「あ……そう」
「いろいろ、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
所長は、それ以上、何も、言わなかった。私も、それ以上、言わなかった。
所長のデスクに、来月の議題リストが、印刷されて、置いてあった。たぶん、四番目に、来年度の採用方針が、書いてある。
その日の夜、瑞希を、駅前のカフェに、誘った。
「来月の末で、辞めます」
瑞希は、コーヒーカップを、傾けたまま、止まった。
「……」
「ごめんね、瑞希ちゃん」
「いえ……佐藤先生が、辞めるのは、佐藤先生の選択ですから」
瑞希は、ちょっと、止まって、それから、ちいさく、笑った。「よかった、です。佐藤先生が、自分の選択で、動いたこと」
「……うん」
「私、たぶん、また、一人に、戻る」
「うん」
「けれど、それは、私が、考えること、です。佐藤先生が、引き受けることでは、ない」
瑞希は、コーヒーを、飲んだ。
退職まで、四週間。引き継ぎを、した。授業の進度、保護者対応のメモ、部屋の鍵の管理、購買のお姉さんとの連絡。
最後の週、月曜日の朝、私は、自分のデスクの引き出しを、開けた。ナプキンが、まだ、残っていた。半年分くらい。
ナプキンを、すべて、瑞希のデスクの引き出しに、移した。
瑞希が、出勤してきて、それを、見た。
「佐藤先生……」
「私が辞めたあと、ユイちゃんが、来るかもしれないから」
「はい」
「私がいないとき、瑞希ちゃんが、対応してくれると、ありがたい」
「はい」
瑞希は、頷いた。それから、自分のデスクに、戻って、引き出しを、開けて、閉めた。
最後の出勤の金曜日、所長が、朝礼で、ふっと、こう言った。
「佐藤先生、十二年、ありがとうございました」
私は、頭を、下げた。
それで、朝礼は、終わった。所長は、それ以上、何も、言わなかった。来年度の採用方針について、何も、言わなかった。
その日、最後の授業を、して、最後の保護者対応の電話を、して、最後の事務処理を、して、夕方、塾を、出た。
玄関を、出た瞬間、振り返らなかった。
明日から、私は、別の塾チェーンに、行く。神奈川の、別の駅前。スタッフ三十人、女性十一人。
「いろいろ、ありますよ」と、新しい所長は、言っていた。「いろいろ」の中身を、私は、まだ、知らない。
知らないけれど、たぶん、また、いろいろ、ある。
私の引き出しのナプキンは、瑞希のデスクに、ある。明日から、瑞希のデスクの引き出しに、しまわれている。
「女性の先生、佐藤先生をお願いします」の電話は、明日から、瑞希のデスクに、回されるかもしれない。回されないかもしれない。
それは、もう、私の、領分では、ない。
← 第七作:「いろいろ、ある」の、向こう側(佐久間ゆり子・53歳)
← 第六作:「黙って、家に帰った」日(山下唯・中三)
← 第五作:議題、四番目(運営会議の集合場面)
← 第四作:「お願いします」の、向こう側(田所美奈子・42歳)
← 第三作:「縁がなかった」の、あと(山田謙一郎・52歳・所長)
← 第二作:二人になっても(高橋瑞希・25歳)
← 第一作:一人だけ、では(佐藤紗英子・35歳)
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本作はシリーズ第八作・第一稿。視点を再び佐藤紗英子に戻し、Part 1 v2「アイコンは、まだ、押されていない」転職アプリが押された日からの四週間を描く。連休明けの月曜にアイコンを押し、別の塾チェーン(神奈川の別駅前、スタッフ30人・女性11人、女性所長60代)の内定を二週間保留して受け入れ、火曜の朝に所長に退職を伝える「あ……そう」、駅前カフェで瑞希に「来月の末で、辞めます」「佐藤先生の選択ですから」「私、たぶん、また、一人に、戻る」「けれど、それは、私が、考えること、です」、引き継ぎ期間の最後の週に引き出しのナプキンを瑞希のデスクに移す(半年分、ユイちゃんが来るかもしれないから)、最後の金曜の朝礼で所長「十二年、ありがとうございました」、夕方塾を出て玄関を振り返らない。結語「明日から、私は、別の塾チェーンに、行く」「『女性の先生、佐藤先生をお願いします』の電話は、明日から、瑞希のデスクに、回されるかもしれない。回されないかもしれない。それは、もう、私の、領分では、ない」。シリーズが「変わらない」を7作で確認したあと、個人だけが変わる現実。