高校二年、二組、森田。金曜の夜、駅前のファミレス。数学研究会の四人で、ノブと、三年の先輩が二人、それと自分。発表前の最後の打ち合わせのあと、誰かが「飯、食ってく?」と言って、流れで、近くのファミレスに入った。窓際の四人席。ノブの向かいに座った。
注文は、ばらばらだった。先輩のひとりが、ハンバーグのセット、九百八十円。もうひとりが、パスタのセット、八百六十円。ノブが、ドリンクバーだけ、三百二十円。自分は、唐揚げ定食、七百二十円。
ノブは、夕飯を家で食べてきた、と言っていた。先輩は、二人とも、空腹だった。自分は、その中間。
会話のあいだ、頭の中で、合計を、出した。三千八百八十円。出してから、それを誰がどう払うのか、の段に、頭が、移った。
食べ終わって、店員さんが、伝票を、テーブルの真ん中に、置いていった。
先輩のひとりが、伝票を、覗き込んで、言った。
「割り勘で、いい?」
もうひとりの先輩が、頷いた。ノブも、頷いた。自分も、頷きそうになった。頷きそうになって、半拍、止まった。
三千八百八十円を、四で、割った。九百七十円。一人、九百七十円。
ノブは、ドリンクバーだけで、三百二十円。九百七十円を払うと、ノブは、自分が頼んだぶんの、三倍くらい、出すことになる。差額は、六百五十円。
頷きそうになった首が、ノブの顔の方を、見にいった。
ノブは、もう、頷いていた。財布を、ポケットから、出していた。千円札を、二枚、用意していた。釣りが、出る前提で、千円札を、ふたつ、出していた。
「ノブ、ドリンクバーだけだろ」と、先輩のひとりが、言った。
「うん」
「べつで、いいよ」
「いや、割り勘で、いい」
「いいの?」
「いい。次、また、誘ってもらえるほうが、得だから」
ノブが、笑った。先輩も、笑った。
「次、また」を、頭の中で、もう一度、聞いた。ノブは、今日の六百五十円を、次の機会の、入場料の、前払い、として、置いた。今日のテーブルの中で、損をすることが、次のテーブルに呼ばれる確率を、上げる。確率の上昇分が、六百五十円より、大きい、という見積もりを、ノブは、すでに、終えていた。
見積もりを、四音で、ノブは、片付けた。「割り勘で、いい」。
自分の番が、来た。財布を、出した。千円札を、一枚、出した。九百七十円。釣りは、三十円。
七百二十円のものを、頼んで、九百七十円、払う。差額は、二百五十円。計算は、合っていた。合っていることを、確かめてから、その計算を、テーブルの上では、口に出さなかった。
口に出さない、ということを、選ぶ手前の、半拍が、あった。半拍のあいだに、舌の付け根が、すこし、動いた。動いたけれど、声には、ならなかった。
効用の側から見ると、割り勘は、ばらついている。先輩は、得をした。ノブは、損をした。自分は、ちょっと損をした。各人が、自分の頼んだぶんを、自分で払えば、もっと、きれいに、合う。
取引コストの側から見ると、割り勘は、安い。電卓を、四回、叩かなくていい。誰が何を頼んだかを、思い出さなくていい。割り勘の四音と、四等分の暗算ひとつで、伝票が、片付く。一分かからずに、テーブルが、立てる。
効用の最適化を、捨てて、取引コストの最適化を、取った、ということだった。だから、割り勘は、続いている。続いているのは、ぜんぶの場面で最適だから、ではない。ぜんぶの場面で、安いから、だった。
英語にすると、たぶん、split the bill。日本語の「割り勘」のほうは、勘定を、割る、と書く。割る、の主語は、テーブルにいる人たち、ではなくて、勘定書、そのもの、のように、見える。勘定が、勝手に、割れていく。割れた数字に、文句を言わない、というのが、たぶん、勘定が割れる、ということの、意味だった。
四人で、店を、出た。先輩二人は、駅の南口に、ノブと自分は、北口に、向かった。横断歩道の信号を、待っていた。
「ノブ、さっきの、ほんとに、よかったの」と、聞いた。
「うん」
「六百五十円、損してる」
「損、してない」
「してる」
「次、誘ってもらえる確率が、上がる。今日の六百五十円は、次のメシ代の、半分くらいの、保険」
「保険」
「うん」
信号が、青になった。歩き出した。歩きながら、ノブの「保険」を、頭の中で、転がした。ノブは、今日の損失を、引き受けて、次のテーブルでの、招かれない損失を、避けた。今日と次を、ひとつの口座で、見ていた。
こちらは、今日のテーブルだけを、見ていた。二百五十円の差額を、見て、半拍、止まった。止まっただけで、口座を、広げなかった。広げる前に、千円札を、出していた。
ノブの口座のほうが、広い。広い口座で見れば、割り勘は、合理的に、見える。狭い口座で見れば、不公平に、見える。同じテーブルが、口座の幅で、別の絵に、なる。
どちらが、正しいか、は、決まっていない。決まっていないまま、千円札を、出した。出したあとで、ノブの口座を、横から、見た。見終わって、自分の口座が、すこし、広がった気が、した。広がった気がした、というだけで、実際に広がったかどうかは、まだ、確かめていなかった。
北口の改札で、ノブと、別れた。
「お疲れ」
「お疲れ」
西向きのホームで、電車を待ちながら、財布の中の、釣りの三十円を、確かめた。十円玉が、三枚。硬貨入れに、戻した。
戻した三枚は、硬貨入れの中で、ほかの硬貨と、混ざった。混ざってしまえば、これが、九百七十円を払ったときの釣り、なのか、別の日の釣りなのか、もう、区別が、つかなかった。区別がつかないまま、財布を、ポケットに、入れた。
電車が、来た。
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本作はジュンのシリーズ番外編「ジュンのことばのメモ」第四作。金曜の夜、数学研究会の打ち上げで入った駅前のファミレス、四人席。ドリンクバーだけのノブと、ハンバーグやパスタの先輩二人と、唐揚げ定食のジュン。先輩の「割り勘で、いい?」の四音に、ノブが即座に頷き、千円札を二枚出してしまう、その手前の半拍を、ジュンが横から観察する。割り勘は、効用の側から見れば、ばらついている。けれど取引コストの側から見れば、安い。ノブはさらに広い口座——「次、誘ってもらえる確率」という時間を跨いだ口座——で、今日の六百五十円を保険として引き受けていた。「割り勘」の英訳 split the bill は、勘定書が勝手に割れていく、という日本語の主語のなさを、たぶん、拾わない。場面はファミレス一場面に絞り、家・部室・コンビニ・電車・相談室の生活圏ループから、意図的に外した。鈴木先生も、水曜三限も、出てこない。結尾は、釣りの十円玉三枚が硬貨入れの中で他の硬貨と混ざって区別がつかなくなる、という、合理性の境界が、財布の中で消える描写で止める。