中島、高校二年、四組。いくつか、と書いたけれど、今回は、いくつかではない。「だいじょうぶ」を返さなかった一回、についての話。
返さなかった、というのが、何が起きていたのか、その場でも、いまも、よくわかっていない。よくわかっていないまま書いている。
金曜の放課後、用具室で、ヤマモトと、ボールを片付けていた。練習は、いつもより早く終わった。雨が、急に強くなって、外のコートが使えなくなった。
棚の二段目に、籠を戻すとき、ヤマモトが、手元を、滑らせた。籠が、棚の縁にぶつかって、なかのボールが、二つ、床に落ちた。落ちたボールは、用具室の床のコンクリートを、軽く、跳ねた。
ヤマモトは、すぐに屈んで、ボールを拾った。拾いながら、こちらを見ないで、「すみません」と言った。
俺は、いつもなら、「だいじょうぶ」と返す。返すはずだった。返そうとした。けれど、口から出なかった。
出なかったのは、たぶん、「だいじょうぶ」が、その場面で、嘘になりそうだったから。
ボールが落ちたこと自体は、ぜんぜん、だいじょうぶだった。ボールは丈夫だし、用具室の床で、傷もつかない。籠も、棚にぶつかっただけで、壊れていない。
嘘になりそうだったのは、ボールが落ちたこと、ではなく、ヤマモトが、こちらを見ないで「すみません」と言った、その見ない、ということに対してだった。ヤマモトが手元を滑らせるのを、ここ二週間くらい、何度か見ていた。先週の練習で、シュートのフォームが、ふだんより硬かった。月曜の朝、廊下ですれ違ったとき、目が合わなかった。
これらの細かいことが、いまの「すみません」と、どこかでつながっているような気がした。気がしただけで、確かめたわけじゃない。確かめないまま、口だけ動いて「だいじょうぶ」を出すと、ヤマモトの「すみません」を、ボールが落ちた一件で片付けたことになる。片付けると、ヤマモトのほうも、それで片付いたことにしないといけない。片付いたことにしないといけない、というのは、こちらが押しつけることだった。
押しつけるのが、たぶん、嫌だった。だから、口が止まった。
「だいじょうぶ」を出さなかった三秒くらいのあいだ、ヤマモトは、ボールを、籠に戻していた。戻し終えても、こちらを見なかった。
三秒は、長かった。長かった、というのを、その場で、感じていた。長いまま、止めておくのは、こっちの仕事のような気がした。仕事、というのは、変な言い方かもしれない。けれど、「だいじょうぶ」で短く片付けるよりは、止めておくほうが、ヤマモトには、たぶん、よかった。
四秒目に、俺は、籠を、棚にもう一段、押し戻した。押し戻す音が、ガタッと、用具室の天井に、薄く、響いた。
「あの籠、前から、滑りやすかったよな」と、俺は言った。
言ってから、自分で、すこし、驚いた。「だいじょうぶ」を出さなかったことは、自分で決めた。けれど、代わりに何を言うか、決めていなかった。決めていないのに、「あの籠、前から、滑りやすかったよな」が、出た。
ヤマモトは、ようやく、こちらを見た。「あ、はい」と言って、すこし、笑った。笑ったのは、すこしだけ、だった。
そのあと、片付けが終わるまで、ヤマモトは、何も話さなかった。俺も、話さなかった。雨の音だけが、用具室の屋根に、ずっと、当たっていた。
片付けが終わって、ヤマモトは、「お先です」と言った。「お疲れさま」と、俺は返した。「お疲れさま」は、すんなり出た。「お疲れさま」と「だいじょうぶ」では、口の動き方が、ぜんぜん違う、ということを、出してから気づいた。「だいじょうぶ」のほうが、たぶん、口の奥のほうから出る。「お疲れさま」は、口の前のほうで、軽く出る。
ヤマモトが用具室を出ていくのを、見送りながら、いまの「だいじょうぶを返さなかった」が、ヤマモトに届いたかどうか、わからなかった。届いたかどうかは、たぶん、ヤマモトの月曜の朝の歩き方を、見ないとわからない。月曜まで、二日ある。
家に帰る途中、傘の下で、もう一度、用具室の三秒を、思い返していた。
「だいじょうぶ」を、返したら、どうなっていたか。たぶん、ヤマモトはほっとしたと思う。ほっとして、それ以上、何も言わなかった。それで、片付けは早く終わった。お互い、楽だった。楽だったまま、月曜になって、ヤマモトの歩き方が、また、月曜の朝の歩き方になっていた、と思う。
「だいじょうぶ」を返さなかったことで、ヤマモトの月曜の歩き方が、変わるかどうかは、わからない。変わらないかもしれない。変わらないなら、こっちが「だいじょうぶ」を返さなかったのは、何にもならなかった、ということになる。何にもならなかったとしても、「だいじょうぶ」を、嘘になりそうな場面で、嘘のまま出すよりは、出さないほうが、たぶん、よかった。
たぶん、よかった、というのが、たしかなのかどうかは、わからない。鈴木先生に聞いてみたいような気もしたけれど、聞いて答えが出る種類のことじゃない、ということも、わかっていた。
傘の下で、雨が、傘の布に当たる音を、しばらく聞いていた。家に着いて、玄関で傘を畳むまで、「だいじょうぶ」のことを、考えていた。畳んだら、考えるのを、やめた。
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本作は中島のシリーズ番外編「ことばのメモ」第二作の書き直し版(v2)。v1の六場面同音並列、機能命名構文(「これは○○の『だいじょうぶ』だった」)、英訳セクション、夜の机の独り言での結尾、そして「応えの最小単位エッセイ」の形そのもの——を撤去。代わりに、用具室でヤマモトに「だいじょうぶ」を一回だけ返さなかった三秒、を書く。「だいじょうぶ」が嘘になりそうな場面で、出さない、という選択。出さないことが、ヤマモトの月曜の歩き方に届くかどうかは、まだ、わからない。「介入しないで見捨てない」を概念で繰り返さず、用具室の三秒の沈黙のなかに置く。