鈴木、四十代後半、私立高校の倫理担当。十月の台湾、修学旅行二日目の夕方。永康街の路地裏の食堂で、円卓の隅に座っていた。注文は店主に伝え終えた。店内は薄暗くて、油の匂いが強かった。客は私のほかは、奥のテーブルに地元の親子連れが一組だけだった。
ガラス戸が開いた。茅野が入ってきた。二組の男子。落ち着いた色のシャツ。私を見つけて、軽く頭を下げた。
「先生、相席よろしいですか」
「どうぞ」
茅野は私の斜め向かいに座って、メニューを開いた。背筋が伸びていた。注文を伝え終えると、湯のみを両手で軽く包んで、外の路地を眺めていた。何も言わなかった。
もう一度、ガラス戸が開いた。
「あ、先生」
中島が入ってきた。四組のパーカー姿。茅野の存在に「お疲れ」と短く挨拶して、私の隣に座った。メニューの漢字を指で押さえながら、店主にいくつか頼んだ。指先で読んでいた。
三回目のガラス戸の音。
「先生、おふたり、いらっしゃるんですか」
アヤだった。一組の女子。リュックを足元に置いて、空いた席に静かに座った。机の上に置かれた湯のみが三つ並んでいるのを見て、店主に「すみません、お湯のみ、ひとつ」と頼んだ。店主は「ああ」と笑って、新しい湯のみを持ってきた。
湯のみが四つ並んだ。アヤは小さく頷いて、メニューを開いた。
店の外で、英語の声が聞こえた。
「Thank you, I'll come in.」
東だった。五組の女子。店主と何かを英語で短く話していたらしく、店主に続いて入ってきた。私たちの円卓に気づいて、足を止めた。
「みなさん、いらっしゃるんですね」
「相席で、座る?」と私。
「はい、お邪魔します」
東は中島の隣に座った。店主が英語のメニューを持ってきてくれた。東は「Just one of these, please」とひとつだけ指して、それから店主に何かを短く聞いた。店主は「Fifty years.」と答えた。
「五十年だそうです」と東は私たちに伝えた。
「五十年?」と中島。
「店主のお祖母さんが始めて、五十年って」
「へえ」
会話はそこで一度途切れた。
五回目のガラス戸の音は、しずかだった。
蓮見だった。三組の男子。シャツとカジュアルなパンツ。入口で軽く一礼してから、店内を見渡した。私を見つけて「お疲れさまです」と頭を下げた。
「相席、よろしいですか」と私。
「お邪魔します」
蓮見は私の向かいの席に座った。座ってから、店内の奥の壁にかかっている古い写真——たぶん店主の祖母の若い頃のものだろう、白黒の家族写真——を、しばらく見ていた。それから視線をメニューに戻した。何も言わなかった。
最後のガラス戸の音。
「えっ、なんで全員ここに」
森田だった。二組。後ろから同級生数名が続いて入ろうとしていたが、円卓を見て「お前ら、別の店にしよう」と冗談混じりに方向を変えた。森田だけが残った。
「相席で?」と私。
「すみません、お邪魔します」
森田が円卓の最後の席に座った。七つの席が、ちょうど埋まった。
店主が私たちのテーブルを見て「皆さん、お友達?」と聞いた。私は「学校の生徒です」と答えた。店主は短く笑って、台所の奥に消えた。
料理が次々運ばれてきた。空心菜の炒め物、滷味の盛り合わせ、私の頼んだ小籠包、東の頼んだ何か(看板料理らしい)、中島が頼んだ牛肉麺、アヤの軽い一品、茅野の炒飯、森田の麺類。円卓の真ん中が、湯気と油の匂いで埋まった。
滷味の盛り合わせには、茶葉蛋、豆腐、大根、海藻が並んでいた。空心菜は緑色が濃くて、湯気が立っていた。
私が箸を取ると、茅野が湯のみのお茶を一口飲んでから、自分の箸を取った。中島が滷味の卵をひとつ自分の皿に取って、それから箸の先で醤油の小皿の位置を、東のほうに少しだけずらした。東はそれに気づいたかどうか、店主から受け取った料理に意識が向いていた。
森田が空心菜にいちばん早く手を伸ばした。湯気が立っているままを、自分の小皿に取った。アヤがその様子を一瞬見て、それから自分の小皿に手を伸ばした。
蓮見が手を合わせて「いただきます」と短く言った。誰も、続いて声には出さなかった。それぞれが食べ始めた。
食事中、会話はぽつぽつとあった。
「永康街、観光客が多いんですね」と中島。
「夜市のほうはもっとだ、と思う」と森田。
「明日も来る、って言ってませんでした、東さん」とアヤ。
「うん。今日は通りを歩いただけだから、明日もう一度、お店をいくつか入ってみたい」
「人気店、並ぶ?」と中島。
「並ぶ店もある。ここは並ばなかった」と東。
店主が東のテーブルに新しい料理を持ってきた。東は店主に「This is delicious. What's the dish called in Mandarin?」と聞いた。店主は短く中国語で答えた。東は「ありがとうございます」と日本語で返した。発音は意識しないままだった。
会話はそこで一度切れた。
茅野が私の湯のみが空に近いのに気づいて、急須を手に取って一杯注いだ。それから自分の湯のみにも注いで、急須を元の位置に戻した。所作は無駄がなくて、目立たなかった。アヤが急須の動きを目で追っていたが、何も言わなかった。
蓮見はゆっくり食べていた。視線が時々、奥の壁の白黒写真のほうへ動いた。何も言わなかった。私もその写真を見たが、写真の中の家族の顔は、はっきり見えない暗さだった。
料理がだいたい半分くらい減ったところで、店主が「お茶、お代わり、どうですか」と聞いてきた。
「お願いします」と私。
店主は新しい急須を持ってきた。茅野が私の湯のみに二杯目を注ぐ前に、店主のほうが先に注いだ。茅野は急須を渡されて、それから他の生徒たちの湯のみにも注いだ。注ぎ終えてから、急須を円卓の真ん中の空いた位置に置いた。
「店主のお祖母さん、どんな方だったのかな」と中島が、ふっと言った。
「五十年前は、この街、どんなだったか」とアヤ。
「戦後すぐじゃないだろうけど、まだ古い建物が多かった頃かもね」と森田。
蓮見は何も言わずに、滷味の豆腐を箸で割っていた。
東は「店主に聞いてみる?」と言ったが、自分でも聞かなかった。聞かないほうが、たぶんよかった。誰もそれを口にしなかったが、聞かないほうがよさそうな空気が、円卓に薄く流れた。
私はその空気を、観察していた。判定はしなかった。
食事が終わった。私が「会計は私が」と言ったが、アヤが「先生、自分の分は払います」と先に小さなノートを取り出した。森田が「いや、先生に出してもらおう」と笑って、結局私が会計をした。後でホテルでひとりずつ集金する、ということになった。
店を出ると、永康街の夕方の喧騒が、急に大きく聞こえた。スクーターの音と、客引きの声と、料理のにおいが混じっていた。
「先生、ごちそうさまでした」と何人かが順に頭を下げた。
「お疲れ。明日も気をつけて」
六人がそれぞれの方向に散った。森田と中島は同じ方向のホテルに向かう道を、しゃべりながら歩き出した。アヤは一人で、お土産屋のほうへ。茅野は反対方向に、ゆっくり消えた。東は店主にもう一度何か英語で言ってから、街を眺めていた。蓮見は東とは逆の方向に、視線を路地の奥に向けたまま、歩いていった。
私はひとりで、ホテルへの道を歩いた。
七人で食べたという事実が、まだ食堂のなかに残っているような気がした。湯気と油の匂いも、口の中に残っていた。
歩きながら、半年前のことが、ふっと頭をよぎった。教室で、私は六人の名前を黒板に並べた。一クラスにひとり、別々の倫理を立てている生徒たちの名前と立場。生徒たちは、その黒板を、しばらくして忘れたはずだった。半年は、忘れるに十分な時間だった。
今夜の円卓で、誰も黒板の言葉を口にしなかった。たわいない夕食を、たわいないままで食べた。それでよかった、と私は思った。教師が渡す言葉は、生徒の中で、薄く残るか、忘れられるか、どちらかになる。どちらもよかった。
角を曲がると、小さな祠があった。線香が一本、燃えていて、煙が薄く夜の空気に立ち上っていた。誰がいま炊いたものか、わからない。私はそれを少し眺めて、ホテルの方角に折れた。
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← アヤのシリーズ最終話:火曜の三限、もう一度
← ジュンのシリーズ最終話:揺らぎは、似ていた
← 茅野のシリーズ最終話:話しかけない
← 中島のシリーズ最終話:俺は、そこにいた
← 東のシリーズ最終話:隣に、置いて、答える
← 蓮見のシリーズ最終話:凍らせない、で、応える
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本作は六シリーズ番外編の書き直し版(v2)。修学旅行の台湾、永康街の食堂で、鈴木先生と六人の生徒の偶然の夕食。v1で「6人がそれぞれの倫理を演じている」schematic な構造を批判して、v2では台詞での自己表明をほぼ排除し、動作の細部に倫理を薄く分散した。「店主のお祖母さんが五十年前に始めた」という店の歴史と、誰もそれを深掘りしないという空気で、シリーズの「流れ」のテーマに薄く呼応する。結尾は街角の祠の線香の煙——蓮見の仏教倫理の名前を出さずに、感覚的に閉じる。