台北の、円卓
鈴木先生と、修学旅行の生徒たち——トロッコ問題シリーズ番外編

鈴木、四十代後半、私立高校の倫理担当。十月の台湾、修学旅行の二日目、自由行動日。生徒たちはホテルから散らばって、それぞれの予定で台北の街に出ていた。教員も夕方の点呼までは自由で、私はひとり、永康街の路地裏の小さな食堂に入って、円卓の隅に座っていた。

永康街の路地裏

店主は中年の男性で、メニューを置いてから、「お茶、何にしますか」と日本語混じりの英語で聞いた。

「ジャスミン茶を」と私は答えた。

店主は急須と湯のみを置いて、奥に消えた。円卓は七人くらい座れる大きさで、私のほかは誰もいなかった。観光客向けの店ではなく、地元の食堂らしい。看板も、ガラス戸の文字も、全部中国語だった。修学旅行のガイドブックには載っていない店で、それでこの席に座った。

烏龍茶ではなくジャスミン茶を選んだのは、十年前にこの街に来たときに、ジャスミン茶を毎日飲んでいたからだった。十年で街は変わっているが、お茶の香りはほとんど同じだった。

メニューを開いて、小籠包と、空心菜の炒め物と、牛肉麺と、滷味の盛り合わせを頼んだ。ひとりにしては少し多いが、修学旅行のあいだホテルの団体食ばかりだったから、地元の味を、一通り食べておきたかった。

茅野

料理を待っているあいだ、ガラス戸が開いて、生徒がひとり入ってきた。

茅野だった。二組の男子。今日の私服は紺のシャツに濃いベージュのズボン。落ち着いた装い。

茅野は店内を見回して、私と目が合うと、軽く頭を下げた。

「先生、相席、よろしいですか」

「ああ、どうぞ」

茅野は私の斜め向かいの席に座った。メニューを開いて、ゆっくり時間をかけて選んだ。最終的に、エビ入りの炒飯と、青菜のおひたしのようなものを頼んだ。注文を伝え終えると、私の湯のみのお茶が少し減っているのを見て、急須を手に取って、何も言わずに注いでくれた。

「ありがとう」

「いえ」

茅野は自分の湯のみにも注いで、両手で軽く包んだ。

「先生は、お一人で?」

「うん。明日の最終日まで、夕方は自由なので」

「私もです。班のメンバーは別の店に行ったので、ひとりで」

会話はそこで一度切れた。茅野は急がずに座っていて、私もメニューの裏の店の説明を眺めていた。

中島と、アヤ

もう一度、ガラス戸が開いた。

「あ、先生、いた」

中島だった。四組の男子。バスケ部のジャージではなく、ふつうのパーカー。

「茅野もいるんすか。お疲れ」

「お疲れ」と茅野。

中島は私の隣に座って、メニューを覗き込んだ。「漢字、なんとなく分かるな。これ何だろ」と独り言を言いながら、店主に「これと、これ」と指で指して頼んだ。

三人になったところで、もう一度ガラス戸が開いた。

「あ、先生、ふたりも」

アヤだった。一組の女子。修学旅行用らしいリュックを肩から下ろして、店内を見回した。

「茅野さんと、中島くん。すごい偶然」

「相席で、座る?」と私。

「はい、お願いします」

アヤは茅野の隣に座って、メニューを開いた。「私、あまり食べられないので、軽いの一品で」と、店主に小さな声で何かを頼んだ。

テーブルの上に四つの湯のみが並んだ。茅野が急須から、新しい湯のみに、ひとつずつ注いだ。注ぐ手の動きが、急がずに、けれど止まらずに、四つの湯のみのあいだを移動していた。

店の外で、英語の声が聞こえた。

Excuse me, what's the most popular dish here?

店主の声で、英語のたどたどしい返事。「Beef noodle, very popular. And small steamed bun, the locals like.

OK, let me check inside.

ガラス戸が開いて、東が入ってきた。五組の女子。私服はパーカーとデニム。

東は店内を見回して、私たちの円卓に目を止めた。

「あ、先生」

「東さん、ひとり?」とアヤ。

「うん。ホテルから散歩してたら、店主の英語が聞こえてきて、入ってみたくなって」

「相席で、座る?」と私。

「はい、お邪魔します」

東は中島の隣に座った。座ってから、店主が英語のメニューを持ってきてくれた。東は店主に何か質問していた。「Where are you from in Taiwan?」「Changhua, central Taiwan.」「Oh, I'm not familiar with Changhua.」「It's a quiet place.

店主が下がってから、東は私たちに「店主、彰化の出身、っていう街、台湾の中部だそうです」と短く伝えた。

蓮見

もう一度、ガラス戸が開いた。

「すみません、人数...あ、先生がいる」

蓮見だった。三組の男子。落ち着いた色のシャツとカジュアルなパンツ。手にお寺のお守りのようなものを持っていて、それをポケットにしまった。

「お疲れさまです」と私に頭を下げてから、円卓を見回した。

「みなさん、いらっしゃるんですね」

「相席で、よろしいですか」と私。

「はい、お邪魔します」

蓮見は私の向かいの席に座った。茅野と蓮見が、円卓越しに目を合わせた。

「茅野さん、確か、茶道部でしたか」と蓮見。

「はい、二組です」

「シズク、知ってます。三組の。よく一緒に話します」

「ああ、シズクと一緒のクラスだったか。シズクとは茶道部の同期で」

「シズクは台湾の方は来てないんですよね、修学旅行」

「うん、シズクは家の都合でこの修学旅行は来てない」

蓮見と茅野のあいだに、シズクという共通の知り合いの線が薄く引かれた。アヤと中島と東は、その線をぼんやり眺めるような顔で、メニューに視線を戻した。

森田

料理が運ばれ始めた。空心菜の炒め物が湯気を立てて、円卓の真ん中に置かれた。次に、滷味の盛り合わせ。茅野の炒飯と、アヤの軽い一品も、続いた。

そのとき、最後にもう一度、ガラス戸が開いた。

「えっ、何これ」

森田だった。二組。同じクラスの数人と一緒に来たらしいが、店内を見て、後ろの友達に「お前ら、別の店行ってくれ、ここ知り合いの集まりみたいだから」と笑いながら言った。友達は「お前、どんだけ顔広いんだよ」と冗談を返して、別の店に向かった。

森田が円卓の最後の席に座った。

「先生、これって、偶然ですか」

「偶然だ」

「永康街、有名すぎるんですかね」

「観光客より、地元の人が多そうな店だから、修学旅行で来る生徒は少ないと思ったんだが」と私。

「ほんとですね、不思議だ」

森田は店主に「ビーフヌードルと、小籠包」と日本語で頼んで、店主は「OK」と短く答えた。

七人。円卓の七つの席が、ちょうど埋まった。

小籠包、十個

料理が次々運ばれてきた。最後に来たのが、私の頼んだ小籠包だった。蒸籠の蓋を店主が開けると、湯気のなかに小籠包が十個並んでいた。

「十個」とアヤが言った。

「七人で、十個」

「ひとり一個ちょっとだね」と中島。

「俺、一個でいい」と森田。「麺もある」

「自分も一個で」と中島。

「ううん」とアヤ。「そうじゃなくて、何個ずつにするかを、決めればいい話」

「決めるって?」

「ひとり一個ずつ取って、残り三個。三個は、いちばん食べたい人が取る、でも誰がいちばん食べたいかは分からない、で」

「だから俺は一個でいい、って言ってるんだけどな」と森田。

「それを先に決めると、誰かが多めに、ということに、なるでしょ」

「いや、それでいいと思うよ」

「うーん、それだと、なんか、ね」

「アヤ、こだわるなあ」と中島が笑った。

茅野が静かに取り箸を取って、最初の小籠包をすっと持ち上げて、私の小皿に置いた。それから、アヤの皿、中島の皿、東の皿、蓮見の皿、森田の皿、自分の皿、と順に置いていった。七つの小皿に、七つの小籠包が、湯気を上げて並んだ。

蒸籠には三個残っていた。茅野は取り箸を蒸籠の脇に戻して、自分の急須からまた湯のみにお茶を注いだ。

「あとの三個は、欲しい人が、ということで」と茅野。

アヤがちょっと笑って「それで、いいか」と頷いた。

店主の出身、明日の予定

食事が始まった。空心菜の炒め物がいちばん減りが早く、滷味の卵と豆腐が、ゆっくり減っていった。茅野が時々、急須からお茶を注ぎ足した。中島が「東さん、もう食べた? まだ空心菜あるよ」と隣に声をかけた。

蒸籠の三個のうち、茅野が一個、東が一個、そして私が「ひとつ、もらってもいいか」と聞いて、私が一個取った。残りはなくなった。

「先生、台北、来たことありますか」と中島。

「二度目。前は十年くらい前、ひとりで」

「自分も初めて来ました」と蓮見。「お祖父ちゃんが、戦前ここで生まれた、という友達の話を、前に聞いたことがあって、来てみたかった街でした」

東がお茶の湯のみを口元から少し下ろして、蓮見の方を見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。蓮見の方も、東を見ずに、空心菜の最後を箸で取っていた。アヤと中島と森田と茅野は、そのまま食事を続けていた。

「明日、最終日ですね」と森田。

「そうだな」と私。

「みんな、明日どこ行く?」

「私は九份、行く」とアヤ。

「俺は故宮博物院」と中島。

「私はもう一度、永康街、来る」と東。

「自分は孔子廟」と蓮見。

「私は迪化街」と茅野。

「自分は士林夜市」と森田。

「みんな、別々の場所だな」と私が笑った。

「先生は?」とアヤ。

「私は、明日もたぶん永康街にいる」

「あ、私と同じ」と東。

「会うかもしれませんね」と東。

「会うかもしれない」と私。

食後

食事が終わった。私が会計をすると言ったが、アヤが「いえ、自分の分は払います」と先に伝票を見て、ひとりずつの分を計算し始めた。森田が「アヤ、それ、ややこしいから、まとめて七で割ろう」と提案した。「ううん、人によって食べた量が違うから」とアヤ。「いや、誰も気にしないだろ」と森田。「気にする人もいるかも」「俺は気にしない」「中島は?」「俺もどっちでもいい」「茅野さんは?」「私もどちらでも」「東さんは?」「七で割っても、別々に払っても、私はどっちでも」「蓮見くんは?」「自分は、アヤさんの提案に乗ります」「うーん、じゃあ、まあ、半分くらいの人が別々派ということで、別々で」

結局、アヤが小さな手帳に各自の数字を書いて、ひとりずつ会計をした。会計のあいだに、茅野が私のお茶の湯のみに、最後の一杯を注いだ。

店を出ると、永康街の夜市の喧騒が、急に大きく聞こえた。

「先生、お疲れさまでした」と何人かが順に頭を下げた。

「お疲れ。明日も気をつけて」

六人がそれぞれの方向に散った。アヤは九份の宿に戻る前に、お土産を見ると言って、夜市の中央に向かった。中島と森田は同じ方向のホテルに戻るらしく、二人で連れ立って歩き出した。茅野はひとりで反対方向に消えた。東はもう一度、店主に挨拶してから、そのまま街を眺めていた。蓮見は、東の方を一瞬見てから、東とは別の方向に、ゆっくり歩き出した。

ホテルへの道

私はひとりで、ホテルへの道を歩いた。永康街の夜は、観光客と地元の人と、両方の声で明るかった。

歩きながら、半年ほど前のことを思い出した。教室で、私は六人の名前を黒板に並べた。それぞれの倫理の名前を、それぞれの生徒の名前と並べた。生徒たちは黙って聞いていた。クラスは違うので、一クラスにひとりずつしか、名前は出なかった。けれどその六人が、別々のクラスで、別々の問いに、別々の応えをしていた、ということが、半年で、私の中で薄く積もっていた。

今夜、円卓で、六人は私が黒板に書いた名前を、口にしなかった。たぶん覚えてもいなかった。たわいない夕食を、たわいなく食べた。けれど、小籠包十個を七人で分けるとき、お茶を急須から注ぐとき、店主に英語で出身を聞くとき、明日の予定を順に並べるとき、それぞれの所作の違いが、円卓の上で、薄く動いていた。動いていた、というよりは、ふだん動いている動き方が、たまたま同じ円卓に七つ並んでいた、というだけだった。

私が黒板に名前を渡したのは、こうした所作の違いを、生徒自身に、見えるようにする手伝いだった。名前を渡した瞬間に、所作はわずかに、嘘っぽくなる。それは、教えてきた生徒の親世代の教え子たちが、卒業後に時々連絡をくれて、教えてくれたことだった。「先生に教えてもらった言葉、いまも使っています、けど、使うたびに、ちょっと嘘っぽくなる感じが、ありますね」。私はその「嘘っぽくなる」を、教師の仕事の限界として、長く抱えてきた。

けれど、嘘っぽくなる、ということを、たぶん生徒の側も、いつか気づく。気づいたあとも、所作は続く。続くことが、嘘っぽさを薄めるのか、嘘っぽさのまま受け入れて続けるのかは、生徒それぞれの選択になる。

今夜の円卓で、六人は名前を出さなかった。出さないままで、所作だけが、ぽつぽつ動いていた。それで十分だった。教師の仕事の、いちばん遠くにある場所が、たぶん、そこだった。

ホテルが見えてきた。明日、最終日。明日の夕方には、また飛行機で日本に戻る。戻れば、また教室で、別の単元を教えはじめる。六人はまた別々のクラスに散らばって、それぞれの所作を続ける。

今夜のことは、たぶん、忘れていく。生徒たちのほうも、私のほうも、半年もすれば、円卓の細かな動きは思い出せなくなる。けれど、忘れていく、ということが、悪いこととは思わなかった。忘れたあとも、所作は続く。続いている、ということだけが、たぶん、教えるという仕事の、本体だった。

ジャスミン茶の香りが、まだ口の中に薄く残っていた。十年前と、ほとんど同じ香りだった。

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← 蓮見のシリーズ最終話:凍らせない、で、応える
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本作は六シリーズの番外編。トロッコ問題から半年後、修学旅行の台湾、永康街の路地裏の食堂で、鈴木先生がひとりで夕食をとっていると、茅野・中島・アヤ・東・蓮見・森田の六人が次々に偶然合流する。七人の円卓。トロッコ問題や倫理の名前は誰も口にしない。けれど、小籠包十個の取り分け、お茶の注ぎ方、店主への英語、会計のしかた、明日の予定の並べ方——たわいない動作の中に、それぞれの倫理が薄く動いている。鈴木先生の独白:「黒板に名前を渡した瞬間に、所作はわずかに嘘っぽくなる。けれど、所作は続く。続いている、ということだけが、たぶん、教えるという仕事の本体だった」。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。