ソノダマリ
ササキハルカに言われた。「ソノダさん、一回台湾行ってきなよ。S1#3で台湾の不動産ポエム書いたのに行ったことないでしょ」
図星だった。
原稿は書いた。「立於國家歌劇院第一排的帝王位」を分析した。「富豪身份地位的象徵」の修辞技法を解剖した。でも台湾の湿った空気を吸ったことがない。夜市の匂いを嗅いだことがない。台湾の人と台湾語で笑い合ったことがない。ポエマイゼーションの分析者が、分析対象の国を知らない。これはいけない。
リンメイファが言った。「来るなら案内するよ」
3泊4日の台北旅行。行ってきた。
桃園空港からMRTで台北駅。リンメイファが改札の外で待っていた。
湿度がすごい。3月の名古屋とは空気の密度が違う。吸い込むと肺が重い。名古屋の春はまだ乾いているのに、台北はもう夏の手前だ。肌にまとわりつく空気。
リンメイファ「ソノダさん、まず夜市に行こう。お腹すいたでしょ」
士林夜市。人が多い。音が多い。匂いが多い。臭豆腐のにおいが鼻を突く。鶏排(巨大なフライドチキン)の油の匂い。葱油餅を焼く音。タピオカミルクティーの看板。漢字が読めるのに意味がわからない言葉。日本語にはない漢字の組み合わせ。「滷味」。「蚵仔煎」。「鹽酥雞」。
私が牡蠣オムレツを食べていると、隣の席の若い男性が話しかけてきた。中国語で。リンメイファが何か返した。男性がにこにこしている。
リンメイファ「日本人だって言ったら、すごく丁寧になった」
ソノダ「……なんで?」
リンメイファ「台湾の男の人ってね、日本人女性にすごく優しいの。でもそれには理由がある」
ソノダ「理由」
リンメイファ「ドラマの影響。日本のドラマの。台湾で日本のドラマはすごく人気があって、日本人女性のイメージが固まってるの。やさしい。おしとやか。控えめ。かわいい」
ソノダ「……私、控えめじゃないよね」
リンメイファ「うん。全然」
(笑)
ソノダ「マンションポエムの分析を100本書く女のどこが控えめなの」
リンメイファ「でも台湾の男の人にとって、ソノダさんは『日本人女性』。その瞬間、やさしくて控えめなイメージが自動的にかぶさる」
ソノダ「……それ、ポエマイゼーションだ」
リンメイファ「え?」
ソノダ「台湾での『日本人女性』は、セルフポエマイゼーションじゃない。他者によるポエマイゼーションだ。私が自分で『控えめです』と言ったわけじゃない。台湾のドラマと文化が、私に着せたイメージ。実態と違う。でも一人歩きしている」
リンメイファ「#7-#8でマークが言ってたやつだ。『プラウド』。英語の"proud"は傲慢だけど、日本ではマンションのブランド名。言葉が実態を離れて意味が変わる」
ソノダ「そう。『日本人女性=控えめ』は、"proud"が『プラウド』になったのと同じ。言葉が——この場合はイメージが——実態を離れて増幅される。しかも私には制御できない。マンションの名前は変えられないのと一緒で、私のパスポートの国籍は変えられない」
夜市の喧噪の中で、ひとつわかった。ポエマイゼーションは広告の技術ではない。人間が他者に対して行う、避けようのない認知の操作だ。台湾に来なかったら気づかなかった。「分析対象の国を知らない」とはこういうことだ。
リンメイファが台湾の友人たちとの食事に誘ってくれた。中山区の小さな台湾料理の店。友人が4人来た。全員女性。全員リンメイファの大学時代の同級生。
最初の5分で、驚いた。
リンメイファが全然違う人になっている。
日本で知っているリンメイファは、穏やかで丁寧な人だ。あのエッセイを書いたときも、敬語を使い、遠回しに語り、「10年住んで、私は温かさのほうを選ぶようになった」と静かに結んだ。控えめで、聡明で、言葉を大切にする人。
台湾のリンメイファは——
大声で笑っている。店員に台湾語でツッコミを入れている。友人の髪型を見て「欸你剪頭髮了喔!超好看!」(え、髪切ったの! めっちゃいい!)と叫んでいる。友人と早口の台湾語で冗談を飛ばし合い、テーブルを叩いて笑い転げている。声が大きい。ジェスチャーが大きい。感情がぜんぶ外に出ている。
ソノダ「メイファさん、日本と全然違うね」
リンメイファは一瞬きょとんとして、それから笑った。
リンメイファ「日本では私もポエマイゼーションしてるの」
ソノダ「……え?」
リンメイファ「丁寧で控えめな『日本に住む台湾人』を演じてる。10年かけて身につけた着ぐるみ。敬語のクッション。遠回しの言い方。空気を読む。全部、日本で生きていくための変装。ここでは素のリンメイファ」
ソノダは黙った。
あのエッセイを思い出す。リンメイファが書いた言葉。「遠回しに言うのは、あなたを大切にしているから」。あの美しい結論を書いたのは、丁寧で控えめな日本版リンメイファだ。
しかし素のリンメイファは、遠回しに言わない人だった。直球で言う人だった。テーブルを叩いて笑い転げる人だった。
リンメイファ「ソノダさん、私が書いたあのエッセイ、覚えてる?」
ソノダ「覚えてる。『遠回しに言うのは愛』って」
リンメイファ「あれ、本当にそう思ってるよ。10年住んで、本当にそう思うようになった。でも——あの文章を書いている私自身が、すでに日本のポエムの中にいたの。台湾のリンメイファなら、もっと短く書いてた。たぶん『日本人很可愛,就是話太多了啦』(日本人はかわいいけど、話が長い)って一行で終わってた」
(友人たち爆笑)
日本版リンメイファと台湾版リンメイファ。同じ人間の二つのポエマイゼーション。日本での10年間は、リンメイファにとって長い変装の時間だった。素顔が消えたわけではない。場所を変えれば、すぐに出てくる。変装は脱げる。しかし変装なしでは、日本では生きられない。
ソノダは、マッチングアプリの記事で「セルフポエマイゼーション」という概念を書いた。自分自身をポエム化すること。プロフィールで「カフェ巡りが好き」と書くこと。あれは言葉の上のセルフポエマイゼーションだった。
リンメイファのそれは、存在のセルフポエマイゼーションだ。言葉だけではない。声の大きさ、笑い方、表情の出し方、人との距離感——存在のすべてを、日本という環境に合わせて変装させていた。プロフィール欄ではなく、人生全体をポエム化していた。
10年間、毎日。
リンメイファの友人たちと、もっと話す機会があった。永康街のカフェ。マンゴーかき氷を食べながら。
友人A(チェンさん)「ソノダさん、いくつ?」
ソノダ「36」
友人B(リンさん、メイファとは別の林さん)「彼氏いるの?」
ソノダ「いない」
友人A「なんで結婚しないの?」
全部直球。3球とも真ん中ストレート。日本なら——少なくとも初対面で——絶対に聞かない質問だ。「プライベートなことを聞くのは失礼」というポエマイゼーションのルールが日本にはある。遠回しに、察して、空気を読んで、聞かないことで相手を守る。
台湾では挨拶だった。
友人A「36歳で独身? 台湾では珍しくないよ。私も35で独身だし。でも焦ってないの?」
ソノダ「……焦ってないと言ったらポエマイゼーションになる」
リンメイファが通訳してくれた。全員が爆笑した。「ポエマイゼーション」という言葉は通じないはずなのに、リンメイファの説明で笑いが起きた。「她的意思是說,說不急就是騙人的啦!」(焦ってないって言ったら嘘になるってこと!)
友人B「正直でいいね。台湾でも『焦ってない』って言う人いるけど、みんな騙人的(嘘)だよ」
笑った。なんて楽なんだろう。
日本でこの話をしたら、こうなる。誰も年齢を聞かない。誰も彼氏の有無を聞かない。誰も結婚しない理由を聞かない。遠回しに「お忙しそうですもんね」と言ってくれる。やさしい。たしかにやさしい。でも——やさしさのクッションの下に、聞きたいことが押し込められている。聞かないだけで、気にしていないわけではない。
台湾の友人たちは、聞いた。聞いて、笑って、「うちも同じだよ」と言った。直球が痛いのではなく、直球のあとに共感がある。聞くから、共有できる。聞かないから、一人で抱える。
日本のポエマイゼーション文化——遠回し、察する、空気を読む——の外側に、こんなに軽やかな世界がある。直球は失礼ではない。直球のあとに「私も同じだよ」がつけば、それは打球ではなくキャッチボールだ。
リンメイファが友人の男性を紹介してくれた。ワンさん。30代半ば。エンジニア。メガネ。穏やか。日本のアニメが好きで、日本語が少しできる。
4人で食事した。リンメイファと、チェンさんと、ワンさんと、私。大安区の小籠包の店。熱い蒸籠から湯気が上がる。
ワンさんは緊張していた。リンメイファに何か頼まれたのだろう。好青年。笑顔がいい。声が穏やか。
ワンさん「ソノダさんは何の仕事してるの?」
来た。この質問。
ソノダ「えーと、広告の言葉を分析する……趣味で……100本くらいエッセイを……」
ワンさん「???」
マッチングアプリの記事で書いた問題が、3D化して目の前に座っている。「マンションポエムの分析」を初対面の人に説明するのは難しい。初対面の外国人に説明するのは不可能だ。
「不動産広告の修辞技法を比較文化的に分析する」——日本語でもわかりにくい。中国語訳なんてできるわけがない。
リンメイファが助け舟を出した。
リンメイファ「她是作家(彼女は作家よ)」
ワンさん「哇,作家!好厲害!(わ、作家! すごい!)」
ソノダ(心の中)「それもポエマイゼーションじゃん」
「作家」。私は作家ではない。趣味のウェブエッセイを書いている元コピーライターだ。でも「作家」と言った瞬間、ワンさんの目が輝いた。言葉が実態を離れて増幅される。「コピーライター」が「作家」に変装して、中国語という異言語のフィルターを通って、権威が増幅された。DXポエムの#5でマークが指摘した構造そのものだ。
ワンさんはいい人だった。小籠包の食べ方を教えてくれた。酢に生姜の千切りを入れて、小籠包の皮に小さな穴を開けてスープを吸ってから食べる。「日本では小籠包をどう食べるの?」と聞かれて、「そのまま噛む」と答えたら驚いていた。
食事のあと、4人で大安森林公園を歩いた。夜の台北は暖かい。ヤシの木が街灯に照らされている。名古屋にはない空気だ。ワンさんと少し二人で歩いた。
ワンさん「ソノダさんの書いたもの、読んでみたい。でも日本語だよね」
ソノダ「うん。日本語。しかもマンションの広告の分析だから、日本語がわかっても面白いかわからない」
ワンさん「沒關係(大丈夫)。翻訳アプリがあるし」
LINEを交換した。
恋愛には至らなかった。至らないことはわかっていた。言語の壁。距離の壁。そもそも私はプロフィールすら書けない人間だ。3時間で恋が始まるなら、ドラマのポエマイゼーションだ。
でもLINEを交換した。それは事実だ。ポエムじゃない。
帰りのタクシーで、リンメイファに聞いた。「なんで紹介してくれたの」。リンメイファは笑った。「ソノダさんがいつも分析ばっかりしてるから。たまには分析じゃなくて、体験してほしかった」。——体験。分析者に足りなかったもの。
桃園空港でリンメイファと別れた。
リンメイファ「下次再來喔!(また来てね!)」
台湾版リンメイファの声で言った。大きな声で。手を振って。日本版リンメイファなら「お気をつけて。またぜひ」と言うところを、「再來喔!」と叫んだ。
飛行機の窓から台湾が遠ざかる。
3泊4日で見たもの。夜市の湯気。牡蠣オムレツの油の匂い。リンメイファの大声の笑い。チェンさんの直球の質問。ワンさんの穏やかなメガネの奥の目。小籠包のスープの味。大安森林公園のヤシの木。台北の湿った夜の空気。
3泊4日で考えたこと。「日本人女性=控えめ」という他者によるポエマイゼーション。リンメイファの二つの顔——存在のセルフポエマイゼーション。直球文化の眩しさ。「焦ってないと言ったらポエマイゼーションになる」。「她是作家」という増幅。
セントレアに着陸する。名古屋の街が見える。
名古屋。
私はこの街をどう思っていたか。
正直に言う。「何でもあって何もない街」。東京ほど華やかでもない。大阪ほど面白くもない。京都ほど歴史もない。福岡ほど食が尖っていない。札幌ほどわかりやすい季節感もない。S1#5で名古屋のマンションポエムを分析したとき、名古屋は「補填すべきものが多い」街だと書いた。語るべきブランド力がないから、言葉で埋めなければならない街。
しかし——台湾から帰ってきて、滑走路の窓から名古屋を見下ろしたとき、ふと思った。
名古屋の「何もない」は、観光PRポエムの「何もないがある」と同じ構造ではないか。
「何もない」は変装だ。実際には——
味噌カツがある。きしめんがある。喫茶店のモーニングがある。コメダがある。名古屋城がある。栄のテレビ塔がある。大須商店街の雑多な活気がある。そして——ポエマイゼーション100本を一緒に書いた仲間がいる。マツモトヒナがいる。日曜日にアイスカフェラテを飲んで何も解決しない午後を過ごせるカフェがある。
台湾で見たのは「直球の文化」の眩しさだった。あの軽やかさに憧れた。チェンさんの「なんで結婚しないの?」を笑い飛ばせる文化。リンメイファが変装を脱いで大声で笑える場所。
でも。
私が100本かけて証明したのは、「遠回しの文化」にも価値があるということだ。
「平素よりお世話になっております」は情報量ゼロだけど、リンメイファが書いた通り、愛情量100%だ。「お体にお気をつけてくださいね」の「ね」に泣きそうになったあの瞬間。遠回しは面倒くさい。でも面倒くさいぶんだけ、気持ちが込もっている。名古屋の遠回しさは、リンメイファが言った「愛」かもしれない。
台湾は直球で愛を伝える。日本は遠回しで愛を伝える。道が違うだけで、行き先は同じだ——と、リンメイファ自身がかつて書いた。台湾で読み返すと、あの一行の意味が変わって見えた。リンメイファは両方の道を歩いた人だから、書けた言葉だったのだ。
名古屋に帰ってきた。
何もない街に。
でも——何もないがある。
スーツケースを転がして名鉄に乗る。見慣れた車窓。濃尾平野の平たい景色。東京のように劇的ではない。台北のように密度がない。ただ広くて、平らで、静かで——やさしい。
スマホにLINEの通知。ワンさんから。
「到家了嗎?路上小心喔」
(家に着いた? 気をつけてね)
情報量ゼロ。愛情量——わからない。でも悪くない。
名古屋の喫茶店でモーニングを食べよう。明日。一人で。小倉トーストとコーヒーと、白紙のマッチングアプリのプロフィールを持って。9稿目を書いてみようか。
台湾のチェンさんなら言うだろう。「不要想太多了啦,寫就對了!」(考えすぎないで、書けばいいじゃん!)
……たぶんまた消すけど。でも今回は、消す前に一晩だけ残しておこうと思う。
ササキハルカに「行ってきた」と報告したら、「で、どうだった?」と聞かれた。
ソノダ「リンメイファが別人だった」
ササキ「別人?」
ソノダ「台湾のリンメイファは、大声で笑う人だった。テーブル叩いて。日本では見たことない顔。存在ごとポエマイゼーションしてたんだよ、10年間」
ササキ「……みんなそうかもね。私たちも、職場と家とで違う人でしょ」
ソノダ「……うん」
ササキ「名古屋は?」
ソノダ「名古屋は名古屋だった。何もないけど、帰ってきたらほっとした」
ササキ「それが答えじゃない?」
たぶん、そう。
100本で証明したのは、ポエマイゼーションの構造だった。101本目以降、カウンセリングで翻訳者になろうとしている。台湾に行って見つけたのは、構造でも翻訳でもなく——ただの気持ちだった。名古屋に帰ってきてほっとする気持ち。なんの分析もいらない、ただの気持ち。
分析者はときどき、分析をやめる必要がある。
やめたとき、見えるものがある。
夜市の油の匂い。友人の大声の笑い。小籠包のスープの温度。
——何もないがある。
——名古屋に帰ってきた。
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