よろしく、の、未来形
東のことばのメモ #7(最終話)・書き直し——東のシリーズ番外編

東、高校二年、五組。四月の最初の月曜の朝。クラス替えの直後で、隣の席にはまだ誰も座っていなかった。名簿の貼り紙を見て、隣はカナだと分かっていた。一年生のとき、別のクラスでお弁当を一緒に食べたことが何回かあった。

カナが教室に入ってきて、わたしの隣の席に鞄を置いた。

「東さん、よろしく」

「うん、よろしく」

それで、ふたりとも、別の話に入った。一年生の終わりの春休みに何をしていたか、というような、たわいない話。

頭の中の声

三限の倫理が始まる前、教科書を出しながら、頭の中でふっと別の声が立ち上がった。「よろしく」って、英語でなんだったろう。

朝の「よろしく」は、初対面の挨拶ではなかった。すでに知っているカナと、これから一年、隣の席に並ぶ、というそのことに対して、軽く頭を下げた。「Nice to meet you」だと、初対面のニュアンスが強すぎて、合わない気がした。

Nice to see you again」は、再会の挨拶として近いけれど、これから一年隣り合うことへの先回りの感じが、抜ける。

頭の中で英語をいくつか並べてみたが、ぴったり来るものは出てこなかった。

これから、のほう

朝の「よろしく」は、いま会えて嬉しい、ということではなかった。これから一緒に過ごす一年に対して、軽く手を差し伸べる感じだった。

カナのほうの「よろしく」も、同じ温度だった。お互い、いま起きていることに対してではなく、これから起きることのほうに、二音半を投げていた。

そのことが、ほかの「ことばのメモ」たちと、すこしだけ違う気がした。「お疲れ」も「すみません」も、いま、または、いまさっき起きたことに対して言うことばだった。「よろしく」は、まだ起きていないことに対して言う。

けれど、これは時制の話というより、ことばがどっちを向いているか、という話だった。「よろしく」は、これから、のほうを向いていた。

三限

三限のベルが鳴って、鈴木先生が入ってきた。倫理の最初の授業は、教科書のオリエンテーションだった。先生は教卓にテキストを置いて、五組の名簿に目を通してから、軽く一礼した。

「よろしくお願いします」

クラス全体も「よろしくお願いします」と返した。

先生の「よろしくお願いします」も、教室のクラスメイトたちの「よろしくお願いします」も、これから一年の倫理の授業のほうに向かっていた。いまのこの瞬間ではなく、これから何回かの月曜の三限の積み重ねのほうに、十一音半が投げられていた。

英語にすると、たぶん「Looking forward to working with you all this year」あたりになる。けれど、それは長い文で、十一音半の挨拶ではなかった。

長い文と、短い挨拶は、たぶん、別のものだった。

家に帰って、台所で母に新しいクラスのことを話した。母は流しで野菜を洗っていた。

「カナちゃんと、また同じクラスだったの」

「うん」

「よかったね」

「うん」

母は野菜の水を切ってから、ふっと言った。「お母さん、明日の朝のお弁当、ちょっと早めに作るから、起きるの早めにしてね」

「うん。よろしく」

「はいはい」

母の「はいはい」は、毎日のように交わされる返事だった。新しい挨拶ではなくて、もう何年も、同じ家のなかで使われてきた、慣れた応答。

家のなかの「よろしく」も、明日の朝に向かっていた。明日のお弁当という、まだ作られていないものに対して、先回りでお願いをして、先回りで頭を下げる。

英語にしようとすると、たぶん「Could you make my lunch a bit earlier tomorrow?」になるけれど、これにはお願いはあっても、軽い感謝のひとかけらが、薄い。

母の「はいはい」のなかにも、明日の早朝への先回りの了解があった。これも英語にすると、たぶん「Sure, sure」あたりだけれど、「もう何年も、同じやりとりをしている」のレイヤーが、入らない。

夜、自分の部屋で、教科書を片づけながら、朝のカナとの「よろしく」を思い出した。

カナが鞄を置いてから「東さん、よろしく」と言うまでの、ほんの一秒くらいの間。あの間に、お互いが、これから一年隣り合う、ということを、たぶん同時に思っていた。「よろしく」は、その思いを、二音半で受け取って、二音半で返す挨拶だった。

窓の外で、四月の夜の風が薄く揺れていた。木の葉のかたちは、まだ春先の色で、くっきりしていなかった。

明日の朝、また同じ教室に行く。同じ隣の席に、カナがまた来る。「おはよう」とふたりで言う。それでもう、「よろしく」は朝には言わない。「よろしく」は、たぶん、関係の最初に一回だけ言う言葉だった。

明日からは、別のことばが、別の温度で、お互いのあいだを行き来する。

明日のお弁当

布団に入る前に、台所のほうから、母がお米を研ぐ音が薄く聞こえた。

明日のお弁当が、もう、用意され始めていた。「明日のお弁当、よろしく」と頼んだ「よろしく」は、もう、明日のほうへ向かって、ことばのままで、ちゃんと届いていた。

翻訳しないままで、四音が、台所の音と一緒に、明日に向かっていた。

← 前話:お先に、の、引き際(東のことばのメモ #6)
← v1:よろしく、の、未来形(第一稿)
← v1への辛口レビュー
← 関連:お疲れ様、を、英語で(東のことばのメモ #1)
← 関連:すみません、の、いくつか(#2)
← 関連:もったいない、を、訳しかけて(#3)
← 関連:お互い様、の、温度(#4)
← 関連:なんとなく、の、輪郭(#5)
← 関連:隣に、置いて、答える(東のシリーズ最終話)
← 関連:東のシリーズの種明かし
← シリーズ #1:日本では
← シリーズ目次に戻る

本作は東の番外編「ことばのメモ」第7話の書き直し版(v2)。v1の「6英訳の網羅・現在形/過去形/未来形の対比図式・シリーズ全話の回収・決め台詞の改変」を撤去し、四月のクラス替え初日の朝のカナとの「よろしく」、三限の倫理での鈴木先生との「よろしくお願いします」、家での母との「明日のお弁当、よろしく」——三つの場面だけに絞った。「これから、のほう」という方向感を、観察として薄く置く。最終話としての記念碑化を回避し、他話と同じ構造・同じ温度を保つ書き方を試みる。

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。