蓮見、高校二年、三組。月曜の朝の境内の掃き掃除から一日経った、火曜の昼休み。三組の教室で、自分の席に座って、コンビニで買ってきたおにぎりを食べていた。母は朝食には味噌汁とご飯を出してくれるが、お昼の弁当は作っていない。お寺の朝が早いので、父と母はお弁当の準備までは手が回らない。蓮見はそのことを苦にしたことがない。中学のときから、学校の昼食はコンビニのおにぎりかパンで通してきた。
火曜の昼休みは、四限の終わりが少し延びて、十二時三十五分くらいから始まった。クラスのほとんどが、お弁当か購買のパンを広げていた。三組はおとなしいクラスで、昼休みも騒がしくはない。机をくっつけて女子二、三人で食べる班と、自分の席で本を読みながら食べる男子と、廊下のほうへ消えていく数人と、それくらいの小さな散らばり。
蓮見の隣の席は、女子の生徒。名前は知っているが話したことはほとんどない。彼女は今日もきれいに包まれたお弁当を広げていて、本を読みながらゆっくり食べていた。隣の席同士で会話するわけでもなく、無視しているわけでもなく、それぞれが自分の昼休みを過ごす、という間合いだった。
蓮見の前の席のイケダと、その隣のカワノが、机を寄せて二人で食べていた。二人とも男子で、サッカー部とラグビー部だったか、運動部の話をいつもしている。今日も最初は部活の話で笑っていた。
おにぎりの二つ目を開けたあたりで、二人の会話の温度が少し変わった。
「あー、そうだ、言ってなかったんだけどさ」と、イケダが言った。
「うん」と、カワノ。
「先週、犬が死んだ」
「え、マジで」
「マジ。先週の水曜の夜」
「何歳だったっけ、お前んち」
「十六。十六歳だった」
「えー、長生きしたなあ」
「うん。獣医も、十六まで生きたら立派、って言ってた。最後は腎臓がだめになって、ちょっと痩せて、寝てる時間が長くなって、ある朝、起きたら冷たくなってた」
「そっかー」
「俺がガキんとき、五歳とか六歳のとき、家に来たんだよね。だからもう、人生のほとんど一緒だった、ってことになる」
「お前、十六、十六って言うけど、それ、犬の年齢で?」
「犬の年齢で十六。人間の年齢で言ったら、八十くらい?」
「ああ、それで、ちゃんとお年寄りの犬だったわけか」
「うん。お年寄りの犬」
イケダは、おにぎりを口に運んでから、続けた。
「それでさ、なんかこう、いまだに、家帰ったときに、玄関で待ってる気がする、っていうか」
「ああ」
「いない、ってわかってんだけど、いる気がする」
「うん」
カワノは「うん」と短く言って、それから「うちのばあちゃんが死んだときも、似た感じだった」と、別の話に繋げた。
蓮見はおにぎりを食べながら、二人の会話を、聞こうとして聞いていたわけではないが、聞こえてきていた。三組の昼休みは静かだから、隣の机の会話は自然に聞こえてくる。
「家に帰ったとき、玄関で待ってる気がする」と、イケダは言った。
これは、土曜の三回忌の控え室で、御祖父さんが「台所に立つと、まだ向こうから声が聞こえる気がする」と言ったのと、構造が同じだった。亡くなった存在が、生きている人の中で、別の形で続いている。御祖父さんの中のおばあさん、イケダの中の犬。種類は違うが、流れの形は近い。
「うちのばあちゃんが死んだときも、似た感じだった」と、カワノが言った。これも、犬と人の死を、感覚として並べていた。並べた、というよりは、自然に隣に置いていた、という感じ。違う種類の死だが、残された人の中での続き方は、似ている部分がある、と、カワノは無理なく感じていた。
蓮見はおにぎりを噛みながら、会話の輪に入らなかった。入らなかったのは、内向的だからというよりは、お寺で見ているのと、教室の会話が、同じ流れに触れていながら、温度が違うから、だった。お寺ではこういう話は、葬儀や法要の場面の、丁寧な距離で進む。教室では、おにぎりを食べながら、笑いを混ぜながら、自然な距離で進む。
同じ流れに触れていても、距離が違う。距離が違うから、入り方も違う。蓮見が会話に入ろうとすると、お寺の側の距離を持ち込んでしまう気がした。それは、イケダとカワノの自然な昼休みの距離を、たぶん、ずらしてしまう。
入らない方が、二人の会話の温度を保てる。お寺の感覚は、心の中で受け止めて、口には出さない。これも、お寺の作法のひとつだった。
イケダはもう一度言った。
「いまだに、いる気がするんだよなあ」
「あれだよな、諸行無常、ってやつ」と、カワノが冗談ぽく付け加えた。
「お前、急に古文みたいなこと言うな」
「いや、なんか、平家物語、思い出した。中三のときやったやつ。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
「そんなん覚えてんのお前。すげえな」
「冒頭だけ、なぜか覚えてる」
「平家物語の冒頭で、犬の話するなよ」
「いや、犬と平家関係ないけど、なんか諸行無常って言葉が浮かんだ」
イケダは少し笑った。カワノも笑った。会話は、犬の話から、平家物語の話に、軽く移って、それから部活のミーティングの話に戻った。
蓮見はおにぎりの最後の一口を食べた。
諸行無常という言葉が、教室で出た。冗談として出た。けれど、冗談として出されたその言葉が、本来指している場面に、二人はちょうど触れていた。十六歳の犬の死と、玄関で待っている気がするイケダ。これは、まさに諸行無常の場面だった。
カワノは中三の古文の授業で、平家物語の冒頭を覚えた。覚えただけで、意味の現場に立ち会うことが、その後の人生でいつかあるかどうかは、人それぞれ。カワノは今日、犬の話を聞きながら、ふっと、その言葉と現場が結びついた。冗談の形で、結びつけた。
結びつけ方が冗談なのか、それとも、もっと別の何かなのか、たぶん本人もわかっていない。けれど、結びついた、という事実は残った。
昼休みの終わりのチャイムが鳴った。五限は数学だった。先生が入ってきて、ベクトルの続きを始めた。
蓮見はノートを開いて、シャープペンを持って、先生の説明を聞いた。けれど、頭の半分は、まだ、イケダの十六歳の犬と、カワノの「諸行無常」の冗談の方に、残っていた。
諸行無常という言葉は、お寺では、仏教の三法印のひとつとして、丁寧に扱われている。「すべてのものは移ろう」という教えで、お参りや法話で出てくる。学校では、平家物語の古文の授業で、武家の世の儚さの導入として教えられる。冗談のジョークとしても、しばしば使われる。同じ言葉が、三つの場所で、別の温度で使われている。
三つの温度のどれが正しい、ということは、たぶんない。お寺の温度は、お寺の場面でちょうどいい。古典の温度は、古典の授業でちょうどいい。冗談の温度は、教室の昼休みでちょうどいい。三つは別々の場所で、それぞれの温度で続いている。
カワノが冗談として出した「諸行無常」は、けれど、ただの冗談ではなかった。十六歳の犬の死と、玄関で待っている気がする感覚に、ちょうど当てはまる場面で、ふっと出てきた言葉だった。冗談の形をしているが、現場の感覚に触れていた。冗談と本物の境界は、たぶん、思っているよりも、薄い。
祖父が日曜に「実物が先で、言葉が後」と言っていた(父も hasumi-02 で同じ趣旨を言っていた、けれど、原型は祖父からきているのだろうと思う)。実物の場面に、後から言葉が当てはまる。今日の昼休みは、まさにそれだった。十六歳の犬の死、という実物に、平家物語の冒頭という言葉が、後から当てはまった。当てはまり方は冗談だったが、当てはまったという事実は、変わらない。
放課後、自転車で家に帰った。火曜は部活には入っていないので(蓮見は帰宅部だった)、まっすぐ家に向かった。
自転車を漕ぎながら、頭の中で、火曜の昼休みの会話を、もう一度なぞった。
イケダの犬が、十六歳まで生きて、先週の水曜の夜に亡くなった。お参りはしないだろう。犬のお参りは、街のペット霊園か、家での簡単な弔い。お寺の本堂には来ない。けれど、犬の死もまた、家族の中の流れだった。イケダの中で、犬は、まだ玄関で待っている形で続いている。御祖父さんの中の、台所で声が聞こえる気がするおばあさんと、構造的には似ている。
お寺で送る人と、お寺では送らない命。お寺の過去帳には、犬の名前は載らない。けれど、それぞれの家族の中で、犬の名前は、続いている。お寺で見ている流れの外側にも、似た流れがたくさんある。お寺はその全部を引き受けるわけではない。お寺が見ているのは、その一部だ。
金曜のトロッコ問題の「五人」「一人」も、たぶん、お寺で送る人と、お寺で送らない命の、両方を、線路の上に置いていた。線路の上の人がペットの飼い主かもしれないし、犬がいる家族の親かもしれない。線路の上の数だけでは、その人の家族の中の犬まで、見えない。
けれど、それを教室で言葉にすると、ややこしすぎる。「家族の中の犬まで考慮しないと答えられません」と言うと、議論を、不可能なほど膨らませてしまう。問いの精度を保つには、ある程度、削ぎ落とす必要がある。お寺の感覚は、削ぎ落とさない感覚。問いの精度よりも、流れの全部を見る方を優先する。
削ぎ落とす感覚と、削ぎ落とさない感覚。両方とも、たぶん、必要なのだろうと思う。教室は削ぎ落とす場所、お寺は削ぎ落とさない場所。両方が、別の場所で、別の役割を持つ。
家に着いて、自転車を山門の脇に置いた。境内を通って住居に入る前に、地蔵の前を見た。月曜の朝に田中さんの娘さんが置いていった菜の花は、もう少ししおれていた。竹筒の水は、たぶん父か僕が、明日の朝に替える。
住居でジャージに着替えて、寺務所をのぞいた。母が檀家への手紙を書いていた。お盆の案内らしかった。
「ただいま」
「お帰り。今日は何かある?」
「ううん、ふつう」
「そう。お父さんが法事の準備で忙しいから、夕方のお勤めの本堂の片付け、手伝ってくれる?」
「うん」
母は手紙書きに戻った。蓮見は本堂のほうに行った。父はまだ法事の打ち合わせらしく、本堂の片隅で電話をしていた。蓮見は本堂の中の蝋燭台の灰を整え、線香の燃え残りを片付けた。
香炉の灰を整えながら、火曜の昼休みのイケダの「玄関で待ってる気がする」を、もう一度頭の中で再生した。
線香の燃え残りが、灰の上にちょこんと立っている。それを灰ならしで均すと、線香はもう見えなくなる。けれど、灰そのものの中に、何百本、何千本の線香が、形を失いながら、混ざって、残っていた。灰の中に、過去の線香が全部、別の形で続いている。
「玄関で待ってる気がする」は、灰の中の線香に、似ている。形は失われているが、何かが残っている。
夜、ベッドに寝そべって、天井を見ていた。火曜の一日が、頭の中でゆっくり並んだ。
朝の境内の枯葉、地蔵の菜の花のしおれ、火曜の昼休みのイケダの犬の話、カワノの「諸行無常」、五限のベクトル、放課後の自転車、本堂の香炉の灰。
これらが、束に加わった。来週の金曜の三限まで、あと三日。水曜と木曜にも、たぶん、何かが束に加わる。
火曜の昼休みは、お寺の感覚と、教室の感覚が、同じ流れに、別の温度で触れた場面だった。蓮見はその場面に、お寺の側からは入らなかった。入らないことで、教室の温度を、保った。けれど、心の中では、お寺の感覚と教室の感覚が、両方ともしっかり、隣に置かれていた。
これは、誰のシリーズだったか、たぶん東のシリーズだったと思うが、東がカナのお祖母ちゃんの台北の話を聞いて、自分のニュージャージーと「並べないで、隣に、置く」と決めた、その感覚に、少し近い。お寺の感覚と、教室の感覚を、並べないで、隣に、置く。同じ流れに別の温度で触れている、ということを、内側で見ている。
金曜の三限の応えに、これがどう繋がるか、まだ言葉にならない。けれど、教室で出る応えは、教室の温度の応えになる、ということは、たぶん見えている。教室の温度で、お寺の感覚を、削ぎ落とさずに、けれど、教室の枠の中で、応えに翻訳する。それが、来週の僕の仕事になる。
翻訳できるか、まだわからない。翻訳できないままで、教室に座ることになるかもしれない。それでもいい、と、いまは思える。父が「言葉にすると、嘘っぽくなる」と言っていた。翻訳しないままで、心の中に置いておく、ということも、応えの形のひとつだろうと思う。
窓の外で、本堂の屋根がうっすら見えた。明日の朝、また父と境内を掃く。火曜の枯葉とは別の枯葉が、水曜の朝には落ちている。
→ 次話:お茶を、出す(水曜の寺務所、檀家の吉田さん、蓮見のトロッコ問題シリーズ #6)
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← 関連:答えは、出る(二組の森田)
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← 関連:おはよう(四組の中島)
← 関連:日本では(五組の東)
← 関連:カナのお祖母ちゃん(東の「並べないで、隣に、置く」)
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【蓮見のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第5話。火曜の昼休み、教室で、前の席のイケダが「先週、犬が死んだ」と話す。十六歳の犬で、長生きだった。「玄関で待ってる気がする」というイケダの一言は、土曜の御祖父さんの「台所で声が聞こえる気がする」と構造的に同じ。カワノが冗談で「諸行無常、ってやつ」と添える。冗談の形だが、現場に当てはまる言葉だった。蓮見は会話に入らない。お寺の温度を持ち込むと、教室の温度がずれるから。同じ流れに別の温度で触れる、両方を「並べないで、隣に、置く」(東の言葉と響き合う)。お寺で送る人と送らない命、削ぎ落とす感覚と削ぎ落とさない感覚。