蓮見、高校二年、三組。火曜の昼休みのイケダの犬の話から一日経った、水曜の夕方。学校から自転車で帰って、五時すぎ。山門をくぐって境内を抜け、住居に入る前に、寺務所の灯りが点いているのに気づいた。寺務所には、ふだん母がいる。けれど、今日は朝から市役所と銀行に行くと言って出かけていて、夕方まで戻らないはずだった。
制服のまま寺務所のガラス戸を開けた。入口の靴脱ぎに、見覚えのある女性の靴が一足、揃えて置かれていた。檀家の方が来ているらしい。
寺務所の畳の間に、五十代の女性が座布団に座って、机の上の急須を見つめていた。お茶はもう冷めていた。母が出して、母が出かけたあと、ずっとひとりで待っていたのだと思う。
「あ、こんばんは」と僕は言った。
女性は顔を上げた。檀家の吉田さんだった。月命日のお参りで何度かお会いしている。五十代の半ば、痩せていて、いつも穏やかな笑顔の方だった。今日は笑顔ではなかったが、不機嫌でもなかった。疲れた、ふつうの表情だった。
「ああ、副住職さん。お帰りなさい」
「父、いまどこに?」
「ご住職は本堂のほうで、別の檀家さんとお話中です。私、待たせていただいてました」
「お母さん、まだ帰ってないんですね」
「ええ、奥様、五時にはお戻り、と聞いていたのですけど、銀行が混んだのか」
「すみません、お茶、冷めていますね。淹れ直します」
「あ、お気遣いなく」
「いえ、淹れます」
寺務所の奥の小さな台所で、湯を沸かして、母の急須を洗って、新しいお茶っ葉を入れた。湯が沸くあいだ、外の暮れていく境内をガラス戸越しに見た。
お茶を淹れて、湯のみに注いで、お盆に載せて、座布団の前の机に運んだ。吉田さんに一杯、自分の前に一杯。自分のは、薄めにした。
「すみませんね、副住職さんに、お気を遣わせて」
「いえ。お父さん、戻るまで、もう少し時間がかかるかもしれません。お話、お急ぎですか」
「いえ、急いではいません。今日はお参りでも、法事でもなくて、ただ、ご住職と、すこしお話をしてもらいたかっただけなので」
「そうでしたか」
吉田さんは湯のみを両手で包んで、軽く息をついた。
「副住職さんは、高校生でしたかね」
「はい、二年です」
「お忙しいでしょう、勉強と、お寺と」
「お寺のほうは、まだ手伝いの域なので、忙しいのは父と母です」
「いえ、若いうちから、こうやってお茶を出してくれる方がいるのは、檀家としては、ありがたいですよ」
吉田さんは小さく笑った。さっきまでの疲れた表情が、少しゆるんだ。
僕は何も言わずに、自分の湯のみを見ていた。父が戻るまで、たぶん十分か二十分。お話の中身は、父のお仕事だ。僕は寺務所を出てもよかったが、出ると吉田さんがまたひとりで湯のみを見つめる時間に戻る。出るタイミングを、計りかねていた。
吉田さんが先に話を続けてくれた。
「副住職さんは、ご存じかしら、うちの主人の話」
「お名前は、月命日のお参りで、伺ったことがある気がします。ご病気、というのは、お聞きしたことがあります」
「ええ、認知症が、ちょっとずつ進んでいまして。家で看ているのですけど」
「そうなんですね」
「最近ね」と、吉田さんは湯のみの中の茶葉の沈み方を見ながら続けた。「最近、ね、主人が、別人みたいに見える日と、いつもの主人に見える日が、あるんです」
「別人みたいに、見える日」
「ええ。同じ家にいて、同じ顔で、同じ声で、けれど、ふっと、知らない人がそこに座っている、ような感じになる日が、あります」
「うん」
「そういう日に、私が『お父さん、お茶飲む?』と話しかけても、相手が、いつもの主人ではない感じで、応えてくる。受け答えの間とか、目の合い方とかが、いつもと違う」
「それは、しんどいかもしれませんね」
「しんどい、というよりは、戸惑う、というほうが近いです。同じ家の、同じ食卓に、別の人が座っている、ような戸惑い」
吉田さんはお茶を一口飲んだ。
「いつもの主人に見える日もあるんです。そういう日は、ほっとする。けれど、ほっとした次の日に、また別人の日が来ると、ほっとした分だけ、戸惑いが深くなる」
「うん」
「同じ主人なのに、毎日違うんです」
吉田さんはそこで、自分の言ったことに少し引っかかったように、目を伏せた。
「同じ主人なのに、毎日違う、って、私、いま言いましたけど、これ、よく考えると、変な言い方ですよね。同じ人なのに、毎日違う、というのは、矛盾しているような」
「うん。けれど、たぶん、矛盾はしていないと、僕は思います」
「副住職さん、何かお考えが」
僕は十七歳で、吉田さんは五十五くらい。吉田さんは三十年あまり、ご主人と暮らしてきた。僕は誰かと三十年暮らしたことはない。吉田さんの戸惑いの深さに、僕は、たぶん届かない。
けれど、お寺で見ていることの中に、似た輪郭は、ある。それを言葉にしてしまうと、吉田さんの戸惑いを、お寺の説教の例にしてしまう気がした。父なら、もっとうまく、言葉にしないままで、応えられる。僕には、そこまでの稽古はない。
けれど、何も応えないのも、たぶん違う。吉田さんは「副住職さん、何かお考えが」と、聞いてくれている。
僕は湯のみを置いて、ゆっくり言った。
「同じ人なのに、毎日違う、というのは、お寺で見ていると、たぶん、ほとんどの人について、起きていることだと思います。認知症の方は、それが、家族の目に、はっきり見える形で出ているのかもしれません」
「うん」
「同じ私たちでも、月曜と火曜と水曜で、たぶん少し違っています。違いが小さいから、私たちは『同じ』としてまとめて生活しています。違いが大きくなると、まとめにくくなる」
「まとめにくくなる」
「父が、土曜のお参りで、よくおっしゃっていました。同じ人を、同じ人として続けていく、というのは、家族の側の、能動的な作業だと。何もしないで自然に同じ人として続いていく、わけではない。家族が、毎日、まとめ直しているのだ、と」
「まとめ直す」
「ええ。吉田さんは、毎日、ご主人を、ご主人としてまとめ直していらっしゃる。違う日もあるご主人を、それでも同じご主人として、まとめ直す。それは、たぶん、すごい作業だと思います」
吉田さんはしばらく湯のみを見ていた。それから、ゆっくり頷いた。
「まとめ直す、という言葉、しっくりきますね。私、毎日、まとめ直してたんだ」
「ええ、たぶん」
「疲れますよね、まとめ直しの作業って」
「だと思います」
「副住職さん、よく言ってくれました」
吉田さんは少し笑った。さっきまでの疲れた笑いとは、別の種類の笑いだった。
本堂のほうから足音が近づいてきた。父が戻ってきた。
「吉田さん、お待たせしてすみません」と父が寺務所に入ってきた。
「いえ、副住職さんとお話していて、お茶もいただいて」
父は僕の方を一瞬見た。何かを察したのか、何も察していないのか、表情からは読めなかった。
「では、本堂のほうへ」と父は言って、吉田さんを案内した。吉田さんは座布団から立ち上がって、僕に「どうもありがとう」と軽く頭を下げた。僕も「失礼します」と返した。
二人が寺務所を出て、本堂のほうへ歩いていった。寺務所には、二つの空の湯のみと、お茶の残りの湯気だけが残った。
僕はお盆を片付けて、湯のみを台所で洗った。湯のみの底に、お茶っ葉のかけらが沈んでいた。指で軽くなぞって、流した。
制服を着替えに住居の方へ戻る途中、地蔵の前を通った。月曜の朝に田中さんの娘さんが置いていった菜の花は、もうすっかりしおれていた。月曜から水曜まで、三日経っている。次の月曜にはまた新しい花が来る。今週の花は、今週の花のあいだだけ、地蔵の前にいた。
地蔵の前に、しゃがんだ。
吉田さんの「同じ主人なのに、毎日違う」が、頭の中でまだ響いていた。お寺で見ているのと、確かに、似た輪郭だった。月曜のおじいちゃんも、火曜のおじいちゃんも、水曜のおじいちゃんも、本当は少しずつ違う人で、家族はそれを「同じおじいちゃん」としてまとめながら、暮らしてきた。亡くなって初めて、その「まとめ直し」が、終わる。あとは、家族の中で、それぞれが別の形でおじいちゃんを抱えていく。三回忌の御祖父さんの「形にならない二年」は、まとめ直しの相手がいなくなってからの、戸惑いの時間だった。
金曜の三限のトロッコ問題に、もうひとつのかけらが加わった。
「五人」と「一人」を、固定された数として比べる、という問いの立て方は、線路の上の人を、ある一瞬の像で、まとめている。けれど、ある一瞬の像は、まとめ直しの作業をする家族の側から見ると、その「五人」「一人」の輪郭の薄さを、たぶん感じる。線路の上の五人は、それぞれの家族が毎日まとめ直してきた、五人。線路の上の一人も、誰かの家族が毎日まとめ直してきた、一人。
線路の上で停止した像は、家族の側のまとめ直しの結果ではなく、まとめ直しの途中の、ある瞬間の写真にすぎない。写真は、流れの一部を切り取ったもの。切り取った写真を比べる、というのが、トロッコ問題。けれど、切り取られる前の流れには、家族のまとめ直しが、ずっと続いていた。
夜、ベッドに寝そべって、天井を見ていた。水曜の一日が、頭の中で並んだ。
朝の境内の竹箒、火曜の犬の話の余韻、五限の数学、放課後の自転車、寺務所のお茶、吉田さんの「毎日違う」、地蔵のしおれた菜の花。これらが、束に加わった。
吉田さんに「まとめ直す、という作業をしている」と言ったのは、僕の口から出た言葉だった。誰かの言葉ではなく、僕がその場で言葉にしたものだった。お寺の感覚を、教室ではない場所で、初めて、自分の言葉で出した。
言葉にしたら、嘘っぽくなる、と父は言っていた。今日の僕の言葉は、嘘っぽかっただろうか。たぶん少しは嘘っぽかった。けれど、吉田さんは「しっくりきますね」と言ってくれた。完全に嘘ではなかった、ということだろうと思う。
これが、来週の金曜の三限の応えに、繋がるかもしれない。
教室で、五人と一人を比べる問いに、僕は「比べない」と応えるのではなく、「五人も一人も、家族の側のまとめ直しの途中の像です」と応える、ということができるかもしれない。比べないで終わるのではなく、比べる前提にある像の薄さを、指摘する。それは、教室の温度でも、たぶん通じる応えだった。
通じない可能性も、もちろんある。けれど、お茶を出す、という小さな作務の中で、吉田さんに通じる言葉が、ふっと出た。教室でも、ふっと、出るかもしれない。出ないかもしれない。出ないままで、応えにならない、ということもありうる。けれど、出る可能性は、今日のお茶のおかげで、少し広がった気がする。
金曜まで、あと二日。木曜の朝の境内、木曜の昼の教室、木曜の夜のお寺。三十六時間ほど。この時間の中に、たぶん、もう何かが、束に加わる。
窓の外で、本堂の屋根がうっすら見えた。本堂の中では、父が今日もお勤めを終えて、灯りを消したころだろう。寺務所の方では、さっき母が帰ってきた音がしていた。母は明日もまた、お盆の手紙を書き続けている。家のそれぞれが、それぞれの作務の中で、今日を終えていた。
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【蓮見のトロッコ問題シリーズ予告】
本作はシリーズ第6話。水曜の夕方、寺務所に檀家の吉田さん(五十代)が父を訪ねて来ている。母は外出中、父は本堂で別の用事。蓮見が一時的に応対し、お茶を淹れ直す。吉田さんは認知症が進む夫を家で看ている。「同じ主人なのに、毎日違う」と漏らす。蓮見は「同じ人を同じ人として続けていくのは、家族の側の能動的な作業」「毎日まとめ直している」と応える。吉田さんは「しっくりきますね」と。お寺の感覚を、教室でも法事でもない、生きている苦の只中で語る、初めての場面。トロッコ問題の「五人」「一人」の像は、家族のまとめ直しの途中の写真にすぎない、という気づき。